ゲーム(改定版)

最近余りにも暇だ。
就職活動も卒論も終え「さあ、最後の休暇を楽しむぞ」と世間は言うけれど、実際対してやる事がない。
僕はかなり追い詰められないと日常的に自分から「遊ぼう呑もう」とよっぽどの事が無い限り言えない根暗だ。
海外旅行は大していきたくない。
自分がいってもあまり意味は無いと思う。
だったら一冊でも本を買い、ひとりでも多くの杯を交わしたい。

…だから必然的にスケジュールにはポツポツと空きが生まれるようになる。
ひとりで喫茶店に行き、読書をしたり、勉強をしたりするのにも限度がある。

一週間そんな生活をしていたら、まるで浪人生だ。苦行だ。

そこで僕は一週間蟄居してゲームをやる事にした。

まず僕が手をつけたのは「金沢将棋」なる携帯のアプリだ。
そこには人生に於けるバランス感覚と洞察力や決断力をつけようという魂胆があった。
結論から言うと、全く勝てない。レベル最弱で飛車角落ちでも勝てない。
このアプリは僕には洞察力が滑落しているという逆説を、皮肉にも証明する事となった。まあ、某氏に徹夜将棋で二人がかりでも完膚なきまでに叩きのめされた経験を持つ僕としては絶対彼には復讐したいので、頑張りたいと思う。まず「アナグマ」から。まず角が成ったときの駒の動きを覚えるところから。
そして次はメガドライブというハードにドッキングして使用する伝説のハード、「メガCD」なるハードの「ザ・サード・ワールド・ウォー」というソフトだ。


これはまあその名のとおり第三次世界大戦をモデルにして作られたストラテジー系シュミレーションゲームだ。
ジャケットが凄くて

クリントンとフセインが握手している。
時代を感じますね。
そこで僕はまずイスラエルを使って、イギリスを空爆、占領。その後アメリカを使用してイスラエルに海兵隊を送り込み、占領。そして使用国を日本に変え、韓国中国を圧倒的な海軍空軍の力で併合。パレスチナと同盟を結び、中東諸国との同盟を強固なものにする。石油を中心とした経済の流れを手中に収め、アメリカのメキシコ湾岸の石油施設を攻撃。弱体化した空軍設備の隙を突いて、アメリカに生物兵器と核兵器を大量に投下して、完膚なきまでに破壊、占領した。途中戦況が悪くなると、米国は同盟を申し入れてきたが、無条件降伏を飲まなかったので、原爆投下を決定した。国連の決議を無視するのもアメリカのやり方だったししかたないべ。
その後はソ連に対して経済封鎖をかけ、ドイツ・フランスを占領。アフリカ諸国と同盟を結び、資源を得る。再度立ち上がるアメリカ。
それを、徹底的に破壊し、日本が世界制服を果たした。

PCでは

「エイジ オブ エンパイア II」(ココから体験版ダウンロード出来ます)
にハマッた。
体験版を落としたんだけど、この体験版だけで三日は遊べます。無料だし是非やってみて下さい。オンライン対戦も出来るみたいだから、暇な人は戦争しましょう。
このゲームはリアルタイム ストラテジーといわれ、これは、リアルタイムで進行する戦術・戦略シミュレーション ゲームであり、資源を集め、拠点を作り、産業を興し、街を活性化し、軍を強化し、砲や騎馬部隊を作って、最終的には軍事力などによって敵国を制圧するものを指しています。(エイジオブエンパイアは色んなシリーズが出ているんだけど、うちのパソコンのCPUメモリがなんと32MBなんですよ。あまりにも旧式すぎて最近のゲームは全部インストールした時点でフリーズします。メモリ増設とか簡単にできるのかな。パソコンオンチでやんなちゃう。)

このゲームは本と面白い。
一国一条の主になって、リアルタイムで進行する敵国との戦争を指揮できる。
ひとりひとりがしっかり動いてる感じだ。例えば死んだらその兵士が朽ち果てていく様まで見える。
「騎馬部隊」とか男の子の血が騒がないか?
「銃兵部隊」とか騒がないか?
俺はトキメキます。
こういった、戦略ストラテジーゲームは「歴史に介入する意思」をバーチャルのオブラートに包んで、慰めてくれるから良い。
物語による陶酔を与えてくれるから良い。
あとは似たようなやつでは「コサックス」ってゆう戦略シュミレーションも面白い。
こちらもオンライン対戦が可能。敵の生産能力がとても高い為、ちょっと難易度が高めだけど、グラフィックは綺麗。農民がピクミンみたい。
あとは「アルファケンタウリ
なる惑星探査ゲーム。これは「シビライぜーション」ってゆう名作ストラテジーソフトをつくった人の惑星探査版なんだけど、宇宙好き、政治好きにはなかなか秀作。でもエイジ~の方が、体験版が充実している。100ターンじゃクリアはできないなあ。

ストラテジー面白いよ。
擬似人生。
海外旅行と、ゲームと一体なにが違うんだ?
実体験って奴は、何故ソコまで価値を高められる?
ゲームの中での体験は体験と言えないのか??
何故いつまで経っても僕の中に疚しさが付きまとうのか。

勉強したばっかりの現象学と絡め、考えてみたりした。

星屑

ポールデイビスという宇宙物理学者の書いた「宇宙最後の三分間」がとても面白かった。

宇宙はエントロピー増加の法則や、ビッククランチによっていずれ消滅するだろう(説明はここでは省く)。
時間も概念もない「無」が私たち人類、及びその残存物を飲み込むだろう。
歴史を記録するものはない。
我々の発展や生存は太虚の中へと投げ込まれる事となる。
だとすれば、私たちの生とは無意味なのか?
永遠は存在するのか?
価値とは継続にあるのか?

そんな悶々とした事を考えている(事のある)人にオススメの書。
理系の内容なのに平坦で分かり易く、理系は赤点文系オタクの僕でも理解できました。
果てしない思索の海に飛びたてます。
最近そんなこと考えて欝になりかけた自分がこの書のお陰で突破できました。
余計暗くなる人もいると思うけど、「存在と価値」について興味がある人は一読の価値ありです。
そのなかで、目からうろこだった事。
宇宙は最初、ビックバンで誕生したメタンとかヘリウムのようなガス状の元素しかないらしいのです。
そして、そのガス状の物質が引力よって集合したのが、太陽のような恒星。
恒星が爆発した際に超新星になる。
その時始めて爆発による超高温と高圧力で、金や鉛、ウランといった鉄より重い物質が生み出される。
元素合成の初期段階では酸素や炭素なども作られる。
そうして宇宙に飛びだした滓がまた重力によって集められると、それが私たちの今まさにたっている地面<地球>になるのです。

つまり私たちの体を含む、この地球の生きとし生けるもの全ての構成物は遥か昔に死んだ星の核で出来ているという事です。
今こうしてパソコンを見ている眼球も、それを操作する脳も、キーボードをたたいている腕も全部、いつか燃え盛っていたどこかの太陽の一部。
そう考えると、私たちの精神や、想い、果ては夢も、星の残滓で出来ている事になる。

悠久の昔に眩いほどの光を放って炸裂した星に想いを馳せる。
星の欠片で出来ている肉体を使って。

いつか自分の体も炸裂してどこか遠い星の誰かの夢の一部になるのだろうかと思うと、悪い気はしない。

幸福な雪

子供たちが集まる公園に降った雪は幸運だと思う。
公園の雪は他の場所に比べると消費量が違う。
地面が見えても、最後の一片が溶けるまで投げ尽くされる。
真っ黒になるまで弄り尽くされる。

公園の雪は幸福だ。

寓話「柘榴フィリア」

バスに乗ってふと外を見ると全裸でこちらに走ってくる人がいるではないか。
「おや」
と思って見てみる。よく見てみると人は、男か女かわからない。
わからないのでよく目を凝らしてみるのだが、男とゆうには小柄だし、女とゆうには輪郭が丸くない。
「ならば」
と思って股間を見やるが、どうにも股間に焦点が合わない。見よう見ようと目をそばめるが、股間のまわりは何だかモヤモヤとしたものがあって、なかなか判然としない。
見てみえないものや、考えてわからないものがあるなんて何だか癪に触るので、
「全身タイツみたいなもんか」
と思って、やり過ごす事にした。
釈然としてみると全身タイツは顔もモヤモヤしている事に気がついた。
まあでも全身タイツを着たままだとゆうのなら、全て納得がいくから、とりあえず静観してみる事にした。
バスは信号待ちで停止した。
全身タイツは路上を走って、ずんずんずんずん近づいてくる。
「箱根駅伝の山梨学園みたい」
その時、突然全身タイツの頭がぱっくりと割れた。
エイリアンの卵かとゆう程にぱっくりと。
遠くから見てもわかるくらいに割れた頭から赤い脳漿が見て取れる。
「まるで柘榴みたいだ。」
全身タイツはそれでもなお休まず、バスへと走り続けてる。全身タイツに気付いているバスの乗客は私だけだ。
となりにいるサラリーマンやおばさんに全身タイツの存在を言いたいのだが、初対面の人に話しかけるのは何だか恥ずかしいので躊躇される。
迷っている間に脳漿を全開にして、ずんずんずんずん近づいてくる全身タイツ人間。
今まで
「面白いなぁこのキ○チガイ」
と愉快に思っていた私だが、突然、なんだか怖くなってきた
10mを残して。
鮮明に見える脳と血の真紅が正体不明の意味不明に恐怖だ。

恐怖が猛然と走ってくる。
私に向かって。
「うわっ怖っ」
「くんなくんなくんな」
と思った。
するとバスは走りはじめ、バスは速度をあげる。距離が離れ始める。
全身タイツは懸命に僕に向かって走ってくる。
まさに懸命だ。
しかし距離は離れる。
「ああ良かったー」
なんだかほっとする私。
すると再び、バスは信号待ちになる。全身タイツはずんずん来ゆる。
またドキドキする。
三度バスは走りはじめ、距離は離れる。
が、三度信号待ちになり―――――

徐々に近づいてくる柘榴全身タイツは、躊躇う事を知らない。
いよいよ距離1m。

30cm。
すると目の前で立ち止まる全身タイツ。

彼は 立ち尽くしている。

頭は割れているが、
全裸だが、

車道を走っていたが、
立ち尽くしている。
バスはその後、すぐにその場を走り去った。

ホームにて

たとえば今俺のうしろにいるやつが突然、やってくる終電に俺をホームに突き飛ばしたとする
「やだな」
「まだやりたい事があるな」
「まだ死になくないな」
「怖いな」
ふと俺は大人になったんだなと思う。

「人間五十年。下天のうちをくらぶれば、夢幻のごとくなり。一度生を受け滅せぬもののあるべきか。」 

好きな舞の一節。
卒論が進まないのでタバコ買いに行きがてら散歩していると、

「おお」

 桜のつぼみが、もうついている。
こんなに寒いのに、ちょこんといやがる。
けなげだぜ。
また今年も散るのに。
桜にとっても「夢幻の如くなり」なんだろう。
でも咲くしかないから咲く。
咲いて、実をつける。
そして来年も寒い内から、つぼみをつける。

敦盛は、悲しい唄なんかじゃなくて、もっとこう、生に対して攻める唄なんだと解釈した。
自分の住んでる団地も、数年後には壊されるらしい。
「豊かになるために壊す」という記事が今日の朝日新聞に載っていた。
人口減少に伴って集団住宅を取り壊し「量」より「質」の住宅を提供していこうとする国策らしい。
郷愁と、恋慕に満ちた僕の古里も、数年後に消滅する。
郷土がまとめて全て消滅するなんて、そんな経験めったに無いでしょ?
ダムに沈むムラと殆どいっしょだよw「質」はないけどねw
虫とか、塔とか、立ちションベンとか、駄菓子とか、土とかそういったものに、将来僕はもう帰ることはできない。

次世代や、高齢者の方が、豊かになるために、古い住宅は壊す。

その選択も
この詩も
桜も

全部、夢幻の如くなり。

それだけに一個の人生は、逆説的に美しい。

こんな感覚を持てる日本人に生まれて良かった。

妄執

「意味が見つからないから良き生を送れないのではなく、 良き生を送れないからこそ意味にすがるのだ」(『生の歓喜』ニーチェ)

の一言に尽きる(この至言は前にも紹介したけれども)。
自分は、多分生が迸るほどの良き生を送れていなかったのかもしれない。
「相対主義だ、価値だ」云々。
時たま自分は、呑むと管を巻いて「意味」という毒を周囲に撒き散らすことがある(つい何年前までは飲まなくても)。
良き生を送れている人に、「意味」なんて問うてもナンセンスだ。
良き生を送っている人に「意味」は不要だから。
「自己」のみで強く立脚できるからだ。
昨日は、恩師に見事に論破された。
いや、論破というか、たしなめられた。
ところかまわず管を巻く僕を、ばっさりと。
恩師はやっぱり、ずっと先を走っていた。
定期的に誰かに「論破」されないとアホな僕はきっと腐敗する。
アホは高飛車になる自分を一回溶かしてまた新しい鋳型に流し込む作業が不可欠なんです。
「恩師」に「恩師」をいつまでも期待する、僕の至らなさを再認識。
なんつーか、まだ、自分、努力がたりん。
努力をして、未来、それでもまだ「意味」を求めていたのなら、それはまだ「努力」が足りんので、まだ凡夫なんです。
「濃度」を獲得して「良き生」に至る道は、まだ遠い。
それだけに、まだ人生は楽しい。

源信僧都「妄念はもとより凡夫の自体なり」

発見

電車で発見した。
「眠いなぁーあぁきついわぁ」
と思っていた時の事。
ん?
「眠い」って言う感情を「辛い」という結論に結びつけないで
「気持ちいい」
に結びつけてみたら、どうか?
「痛い」や「苦しい」じゃ本当に苦しいからちょっと無理そうだけど、「眠い」は実は苦しくなくない?
「眠さ」は「痒み」に近いような気がする。
痒みを掻いた時にあるあの快楽を、眠さに置き換えてみたら、どうか?
強迫観念的に、眠い→辛さと思わなければよい。
「眠い、自分は眠いけど、気持ちいい~(´∀`)」
の境地まで行けたら人生またちょっと楽しくなるかも。
…凄くお馬鹿なコペルニクス的転回。

落葉

イチョウの葉が、黄金に輝いて積もっていた。
ふかふかして、柔らかそう。
暖かい日差しにあたると本当に金色なんだ。
いい色してるな、お前。
今日はそこに一陣の風が吹いて、葉っぱはさらさらと流れて、カサカサとしたその音が本格的な冬の到来を風が告げていた。
ふー。
タバコと珈琲が本当においしい季節がくるね。

懐古

今日は、学校にゆくまえに朝早く起きて歯医者に行った。
終わって暫く時間があったので、久しぶりに地元を自転車でウロウロした。
中学の頃、初めて好きになった人と遊んだ小さな小さな公園の、二人で遊んだ小さな回るコーヒーカップの遊技機が、錆びた鉄の芯だけになって、ただ何もないところにただ一本で立っていた。
割と通る道だったのに、今の今まで気付かなかった。
冬の日が仄かに暖かい昼下がりである。辺りは無音。
――自分は、何か大切なものをどこかに置き忘れてきたんじゃないか。
自分は幼い頃、もっと環境の変化に心の機微をあわせる事ができた。
季節の移り変わり、日の陰り、虫の生態、隣人の感情、未熟ゆえの孤独、空気の匂い、土の肌触り…
それらを総合して得、全身で感じる「時の流れ」。
友達と砂山にトンネルを作って貫通した時の友人の手の生々しさとか、
はじめて張った霜を踏みつける時のときめきとか
一人で夕暮れ時に帰るときのどこかの家から流れてくる焼き魚のたまらなく良い臭いの切なさとか
カエルをてずかみにしてペットとして飼ってみちゃう無邪気とか
鬼ごっこで顔を地面に押しつけてまで必死で隠れた時の、土の近さ、大地の存在感とか。
陰が小さくなるくらい真上にある真夏の太陽の下、蝉の鳴き声とともに煩雑と聞こえてくる「いいとも」のあのえもいわれぬ感じ
あれ。

ああゆうのさぁ。

もっと原風景を原風景としてそのまま需要できた感受性てあった訳じゃない。
難しいカタカナ語を使ってみたり、へんな援用してみたり、わざと表現を婉曲したり、卑猥な言葉を使ったり、散文詩的な表現が格好良いと独りよがりに思ったり。
そうゆうのも勿論いいけど、自分達がそういうのを自分の中にいれる事によって失う感受性は、思ったより多いと思う。

気付いてない部分がきっと一番多い。

そういう所謂大人部分は勿論必要だよ。幼児退行化しろなて事はいってない。
たまにたまに、自分を懐古する事は絶対良い事だと思うな。

幼い事も今も、トータルでみたら多分なにも変わらない。

感受性が減って、知識とそれをまとめる能力が増えただけ。
卑猥な事を知っただけ。

だから自分は、子供達に学ぶ事は多いと思う。

これからは子供達に学ぼう。