思想

「その背後に思想なくして、真の音楽はない。」
ってショパンが言っていたらしいよ。
だから、この仮説は真なりとは言えないけど、少なくとも我々より説得力があるこどは事実。
やっぱり、音楽には思想がいる気がする。
動機もいる気がする。
芸術にも然り。
けど反論もわかる。
どっちをとるかといったら、やっぱり思想は欲しいところ。
また、驚くべき事に二千年前、プラトンは彼のユートピア的理想国家論の中で音楽の魔について言明している。
「人々は享楽的で程度の低い旋律よって惑わされ、堕落させられて、反道徳的な感情に走るだろう。」
と、警告し音楽について厳しい検閲をすることを薦めている。
いや、まさに昨今の現状を言っているみたいだよね。
トランスとか、今の商業ロックとかなんとかさ。
人間の本質をわかっている人は予言もできるんだね。
多分イエス様も、仏陀様もそういう才能があった人なのかもね。
しかしこんな苦言もある
「世の中の大抵の人は世間の殆どの人間が自分より愚かで劣っていると考えている。」(出典不明)
らしいから、昔のプラトンもショパンもそうだったのかもしれない。
これみんなそうだよね。
俺もそう。
よく戒めないと、よく陥るよね。
対した根拠も実証もなく、侮蔑しちゃうこと。
ダメだね。
いけないね。
実際まあ、この人たちはすんごい人たちだから、凄く説得力あるけど。
神域にいるオジサマ達は芸術について何を考えてたんだろうな。
ただ
「おやじの説教と日本酒は後で利く」(白木屋の便所より)
らしいから、聴いといて損はないと思うな。
最後に。。
「芸術こそ至上である!それは生きる事を可能にする偉大なもの。生への偉大な誘惑者、生の大きな刺激である。」
「善とは何か――人間において権力の感情と権力を欲する意志を高揚するすべてのもの。悪とは何か――弱さから生ずるすべてのもの。」
(ニーチェ「権力への意志」)
卒論が色々脱線してますね。。。

「卒論から脱線した研究は楽しいものである。」

(しょうじ)


『 老人は海を見つめている。
果てしなく広がる豊饒の海を。
その顔には幾重にも重なる皺が深く刻印されている。
彼の人生に於ける、懊悩が、歓喜が、苦難が、克己が、その全てが一つ一つの溝に表れている。
その目には寂涼とした世界が映るのか、それとも満足の光で包まれた世界が映るのか…』


さて、この話はしかし、人間の話ではない。
この話の主人公、つまり第一人称の「老人」は、一個の、ありふれた鞄なのである。
鞄は、40年以上も前、その彼の主人が若者であった頃その手によって偶然選び出され、購入された。彼は京都職人の手によって誕生した。
鞄である彼には、その購入の理由など知る由もなかったし、また興味も無かった。
主人にただ従順に仕えることが運命付けられている鞄は、その役目を果たす事のみに、その全生命を注いだ。
ある時は、重い荷物を無理やりに詰め込まれ、苦しい思いもしたし、またある時は主人の出張に付き合うため、日本中を駆けずり回されもした。あまつさえ、酔ったご主人にタクシーの中に忘れ去られた事もあった。
しかし、鞄は覚えている。
何度壊れても、破けてもその度に修繕をし、大事に大事に使って頂いた事を。
何度忘れても、どんなに遠くても絶対に翌日には彼を迎えに来てくれたことを。
そうした長い長い年月、鞄と主人は敬意と愛情の関係を保ち、様々な困難に立ち向かった。

取引先に足蹴にされずぶ濡れになった悔しさ、プロポーズの瞬間、不可能と思われた商談を勝ち取った歓喜、愛すべき両親との別離…
様々な栄枯盛衰が彼と鞄の横を滑り落ちていった。
幾つものドラマが、生まれては消えていった。

そうしていると、時がいつしか、彼らに永劫消える事の無い深い皺を刻み込んだ。
その一つ一つの皺は彼らに、唯一無二の個性を付随し、その存在とその生き様を輝かせている。
降り積もった時の重みと、その過程にある努力の重みとが混ざり合って、その存在を主張しているのだ。
今、二人は、海を眺めている。
過ぎ去った時間と、その重みを味わいながら。
数々の戦いと、それを乗り越えた思い出の歓喜を噛み締めながら。

冒頭の疑問文をここで訂正しよう。

人生を全力で駆け抜けた者に後悔は、無い。
彼らは相棒に深く刻まれた皺を見て、それを確認するのであった。

さてこのモデルとなった鞄は既に僕の元にある。この物語を自分のものと出来るか。そんな課題を、未来の僕に課してみたいと思う。】


…なんて文をとある会社の課題作文で書いたのは半年前。
ちなみにこれお題は「鞄」だった。
懐かしいなあ。就職活動。
てかこの文、殆ど遊びじゃんね(笑)
いや、それ以前に

・・・この鞄、無い!(笑

慕情

この時間、この夕日が沈んで夜の帳が下り始める空が紫色の時間。
眠たくても寝れなくて、ひんやりとした布団に入って、意識だけは鋭くなって。
訳もなくとても切なくなる時がある。
子供の頃の記憶か、理由もないセンチメンタルか。

それでも只、布団の中にいる。
慕情というには情熱的過ぎる、虚無感というには人間的過ぎる。
そんな感情。

いずれこの世から消えてなくなる自分が、「今」感じる感情。

自分ひとりにしか感じる事のできない「世界の色」。

故の孤独。

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総括

サークルの夏合宿にお邪魔したときには、川端康成の「雪国執筆の宿」に行って来た。

川端本人による書などがあった。
あの奇跡のような端麗な文章が此処で生み出されたのかと思うと、感慨に浸らざるをえなかった。

さらに山中湖畔で行ったゼミ合宿ではみんなに個人行動のわがままを聞いて貰い、「三島由紀夫文学記念館」にも行って来た。

驚喜と感嘆で始終鳥肌が立ちっぱなし。
思想家としての三島というか、小説家としての三島の偉大さを展望できるいい機会だった。
下の写真は彼の生涯最後の原稿の最後の一文。

物というものには魂が宿るらしいのだが、多分原稿や書などといったらその最たるものであろう。
僕はそれらの遺品の中で、戦慄に近い喜びと、不思議な安らぎに包まれるのを感じた。
想像も絶する偉大な作家の御霊の宿る品々に囲まれて目を瞑る。
そんな贅沢。

遺品や足跡に、何故人は惹かれるのだろうか。
そこに「いた」や「した」と言うだけで、人々の心を捉えて離さない、その動機の源泉はどこにあるのだろうか。
「いた」ことには実際何の価値もない。
そこに価値を見出すのは観察者である我々なのだけれども、時空や事物を越えた様なんというか、魂の超越性的なものもあるのではないかと僕は感覚的に悟ってみたりするのだ。
僕のつたない筆では表現できない事が残念でならないが。

良い体験をした夏だった。
わがままをかけた友人達に本当に感謝。

暫定的

人生の殆どはつまり、青春の残りカスである…
そう考えても言いと思えるような景色と、暫時的な実感。
暫時的な仮説。

タバコと酒と健康ランド

吐露

努力しても報われないことがあると言う事ほど、受け入れることが困難な事はない。

遊星から来た物体X

ゆっくりとしおりをはさみ、本を閉じる。

読後の余韻に浸りつつ、心地よい眠気を感じたその時、私の眠りは始まる。

後は闇の中を適音で歌うじめじめとしたジャズシンガーの声と、思惟の波さえあれば、僕を安らかな眠りへと誘ってくれるだろう。
それは、この都会にあって最高に贅沢な一瞬だ。

ふむ。
完璧だ

完璧すぎて怖い。
さあ、眠りに…


ビシッ
ビシッ

ビクッ
不気味な衝突音が響く。
背中に悪寒を感じつつ、完全に引けた腰で飛び起きる。

「奴がきた。」

眼鏡をかけていないのと、電気をつけていないのとで、視界は最悪である。
しかし何はともあれ、寝床から非難しなければならない為、急いで飛び起きた。
つま先を痛烈にぶつけ、目の先に星が散る。

「ああ、クッソ」
だが、そうこうしてる間にも、奴は僕の頭上を旋回しているではないか。
痛みと暑さときみの悪さで、冷や汗がじっとりと張り付く。
ああ、なんて不気味な衝突音なんだ。
ビシッ
ビシッ
ビビビ

物憂げなジャズが流れている。
羽虫の音がする。
助けが欲しくて眠っている母を起こす。
そこで一言。

「馬鹿、一人で倒しなさい。私は朝早いのよ」

ああああ、神様。
奴らに掛かれば、家族愛もへったくれもない。
それにであった誰しもが人間悪の最たるものを露呈するのだ。
てか、家族愛ってこの程度のものなのか?!
いいさ、薄情な母親め、絶対に困っているときには助けてやんないからな。
ああ、絶望だ。絶望だ。
みてろ、絶対に奴を打ち殺してやる!


さて、先ほどから僕が悩まされている生物。
それは、つまりこの人間界で忌むべき生物の内数本の指にはいる生き物
「かなぶん」である。
奴らは、矢鱈滅多らに、いたる所に自らの体をぶっつける。
なので馬鹿なのかと思えば、僕らが捕獲に乗り出すと彼らは自らの気持ち悪さを利用して僕らの顔めがけて襲い掛かってくる(これは獣王・ゴキブリにもいえる特徴だ)頭のよさも兼ね備えている。
僕にいわせれば、奴らの武器はその質量と速度なのだ。
なにが気持ち悪いって、そこに尽きるのだ。
あの質量と速度で以て、我が顔面に衝突されたその瞬間を想像した瞬間、奴らに対する嫌悪感が脳髄にインプットされる。
あの質量は、なにか黒々とした臓腑のつまっている感じを。
あの速度は、衝突時の衝撃を連想させる。
その恐怖感が実際には毒も菌も持たない奴らに唯一の武器を持たせるのである。
奴らは人間の高度な認識能力を逆手にとって擬態をした、狡猾な認知生物なのである。
我々が、奴らの速度と質量を克服したら手で握り潰そうが、足で踏み潰そうが、我々の攻撃力の差から歴然と勝利は目に見えている。

しかしそう、敵は我々の認識。

それを克服したときに、僕らは浮世の苦しみを脱する力を得ているに違いない。

況や私はおや。

さて、そんなことを考えながら何とか第一の危機を逃れた私であるが、飛翔する奴に依然として恐れ慄いていた。
僕の採るべき選択肢は二つ。
一、奴を採り殺す
一、奴を採ってから逃がす
である。
大変慈悲深い僕は(臓物が飛び散る画を想像をしてしまって慄いた僕は)、前者を選択する事に決め、玄関にある虫取り網を手に握り締めて参上した。
だが、その前に真っ暗な僕の寝室の上でとび、ぶつけ回っているかなぶんをやり過ごし、電気をつけ眼鏡を奪取しなくてはならないのだ。
こうしている間にも実に高速で飛び回る奴。
第一匍匐(ほふく)の姿勢をとる僕。
「班長殿!自分は1030の方角から敵小隊による機銃掃射を掻い潜りまして、敵トーチカにあります、敵軍のどまんなかにて、照明弾を打ち上げ、我が軍の眼鏡を奪取してくる所存で御座います!」
「よし、いけ!男をみせろ!」

やあ、と一声、眼鏡を奪取した僕は、完全にへっぴりごしになりながら、電気をつける。
……
我が目を疑った。
カナブンの姿がない!
その一瞬に姿を消したのだ。
「貴様は忍びか!!」 っとつっこみをいれてから、無性に全てがおかしくなってしまい、一人で暫し腹を抱えて爆笑。
笑いも治まると熱病が冷めたように、興奮も引けて、僕は再び寝る事にする。
電気を消す。
時間は既に四時。
肩を撫で下ろし、安堵の息を吐く。

「長い戦いであった。」

そうして眠りの世界に落ちようとすると…

ビシッ
ビビビビ
ビシシ

ああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ
・・・・・・・・
そして、都合六時まで奴と格闘。
いや絶対に寝れる訳がない。

そして、ついに虫取り網にて、彼の獲得に成功。

ひとりカタルシスだ。

ここまで来るともはや彼は戦友である。

白々と明ける朝日に向かって僕は高々と彼を離した。

彼はまるで、昨日まで小さな箱でぶつかりまわっていたのが嘘みたいに大空へと、高みへとその小さな体で飛翔していった。

地上には穢れきった僕だけが残された。

余暇について

大学生最後の夏休みの真っ最中に、これから社会人になる前の僕が、社会人になった後の僕へ贈る言葉を残しておきたいと思う。

まず、もう既に成人を迎えた大人としては失格な、然しありきたりな言葉を吐こう。

「仕事など、したくない。」
これが、どう考えても本音に近いのである。
どんな仕事も、娯楽以上には楽しくなりえない以上、仕事はその目的を生活の基盤としての財政にもつ事になる。
この社会の構成員として、この社会を成り立たせて行くために、我々が、生産力を生みしてゆかなければならない。この社会を維持していくためにはとても莫大な エネルギーを消費するため、組織は常に拡大再生産を強いられる事となる。
そうした組織の構成員である我々はさらに能率を求められることは言うまでもなく、いかにして個人の自我を押し殺し、曖昧な形にして、その責任を常に求められる事となろう。
それは社会全体としてみるのであればもちろん必要なことであろうし、見ようによって「美しい」事にすら見える。
だが、我々は言って見ればミジンコよりも小さい構成要素の粒子の一粒だ。
もっと卑近なところで話をしよう。

その卑近な我々は、働く。
社会がそういう仕組みになっているのだから仕方ない。
だから、僕達は人生全体を占める自由時間を切り崩して、労働にあたる。
そうして得た金銭をもって余暇を過ごす。
つまり、人はもともとある自由時間を使って労働し、その労働をもってさらに自由時間を買っていると言うことができるのである。
労働の対価としての余暇ということを考える時、そこにはヘンテコな関係が出来上がる。それはつまり
「余暇のために働く」
のか、
「働くために余暇がある」
のか、
という論理のパラドクスである。
一見言葉遊びか、詭弁のように見えるかも知れないが、これは日本全体の労働と暮らしを貫く根本的な問題であるような気がするのだ。
行為と目的、認識と実践のあいだに明確な関係性と方向性と欠落した社会は、労働や余暇自体が「それ」だけで自己目的化し、永遠なるループを辿ることになるのである。フーコーは生活に潜む下品な永遠性を「嘔吐」と表現したが、その嘔吐感が今まさにこの社会全体を覆っている、言い知れない停滞感と、混乱を生んでいる一要因であるように思うのである。
男(女性に関してはスペースの関係上此処では割愛させて頂く)にとって、どういう状態が理想であるのだろうか?
皆現実裏では何をを求めているのだろうか?

働かなくても食えるような完全な保護状態だろうか、十分な資産であろうか?
いや敢えて「NO!」と言わせて頂こう。
そんなものはただ人間を肥えさせてゆくだけで、怠惰しか生まない。
なんの人間的成長もありえない。

さて、その代わりに僕が思うのは(唐突であるが)、

「幼少の再来」

であると思うのだ。
実はは皆が既に追い求めているものであるのだけれど…
老いは、悲しい。
それは充実した「今」を過ごしている事に対する切実な逆説として、歴然として存在している。
そうした、老いに逆らいたいという本能にも似た感情が、
 「少年へと帰りたい」
という感情を生み出すのである。

余暇の過ごし方は人それぞれであるが、それは往々にして子供返りを諭すようなものが多い(もちろん全てとは言わないが)。
余暇とは、一時の夢である。
本来所属している組織の見えない責任の鎖による管理下にいながら、それを一日乃至数日間忘れて遊ぶ夢である。
それのために人は七日間のうちの六日間を労働するのである。
恐らくは、それは幼少の頃の自由と酷似する。
少年の自由は自由であるようで完全な自由ではない。
それは母性に守られての自由であった。
束縛の範疇に於ける自由。
疑うこの無く騙される事の出来る軽率さ。

そうした制約の中での安心感が常に介在した自由であった。
しかし、大人になってからの自由は、そうはいかない。義務と責任を常に問われる成熟社会に於いては完全な自由の代償はすなわち人間性の喪失である。
こうした事態を防ぎつつ、かつ心地の良いあの幼かった頃に体験した自由を得るために、人は労働を対価にして余暇を買い、母性による安心感を得るために、結婚をして女性の管理下に置かれるのである。
かくして、男は余暇に模擬的な少年時代の自由を獲得し、意識的に訪れる老いの恐怖や、冒頭にいった堂堂巡りの状況に上手く目を瞑るのである。
大人の男が、余暇の獲得に邁進するのも、このような少年への憧憬というエネルギーがそうせせるのではないかと、僕は思うのである。

つまり不可逆なる時の流れに対する反抗期で我々の人生は出来ているのではないのだろうか?
そうした、大河の流れを逆流させんとするような、挑戦で僕らは老いて行くのである。

だが、思い返して見て欲しい。
我々人間の、全ての終着駅を。
そこでは僕達は愛するの者の世話になるしかないだろう。
老い果てた後は、愛するものの母性に全てを任せるしかないだろう。
つまり、黙っていれば、人生の序で、人は子供に還り、生涯の念願の幼少を獲得出来るのである。
完全なる自由はそこで獲得されてもよいんじゃないかと齢二十二にして思うのである。
(注;まだたいした労働もした事のない者の言う戯言です。労働それ自体にも愉快はあるかもしれない。いや、あるだろうという希望はある。本当の労働をして、またこの文章を読み返して見るときが愉しみである。)

ピラミッド

ふと思った。
「人生はトランプのピラミッドだ」と。

人生はあのピラミットだ。
一度作り始めたら戻ることのできないピラミッドだ。

丁寧に作る人と、粗雑な積み方をする人がいる。

わざと粗雑にする奴も、そうせざるを得なかった人もいる。
土台がしっかりしていないトランプのピラミッドは、上の方へ行けばいくほど、壊れ易くなる。
土台をつくりこんで、高つもうとする人、成功する人もいるし、失敗する人もいる。
途中で疲れて、勝負を降りる人間や、隣の奴と比べてばかりで自分のピラミットをつくるのを忘れてる奴もいる。

となりのピラミッドを壊したりする酷い人も中にはいる。

…また、いざ完成となったときに、出来たピラミッドを自慢する人と、そうではない人がいる。
自慢して多くの人から承認を得てでなければ満足を得られない人間と、一人で悦に浸ることのできる人間がいる。
ピラミットを自分で壊せない人間と、壊せる類の人間がいる。

壊れたピラミットから、目を逸らす人間と、しっかりと見据える人間がいる。

壊れたピラミットの存在をいつまでも覚えている人間と、すぐ忘れる人間がいる。

壊れたピラミッドからまた新しいピラミットを作ろうとする人も….

….まるで、これらは各個人の「人生」に対する態度だ。
全ての行為は、あの遊びだ。
全ての出会いも、あの遊戯だ。

あの遊びは最初から、結論は決まっている。
いくら積んでも、いくら高いピラミットをつくろうとも、最後にはそれを崩さねばならない。
自分でそれを終わらすこともできるし、風がふいて瓦解することもある、他人に壊されことも考えられる。
が、最後に壊れることだけは決まっている

この哀れなピラミッドに限らず、この世のいっさいがっさいが、その運命を背負っている。
あらゆる努力、あらゆる希望、あらゆる命はこのピラミッドの如くいずれ霧消する運命にある。
誠心誠意作り上げる、僕らの芸術はいずれ崩壊する。

みんなそれを知りながら、この「遊び」を始める。
最後には崩さなければならないことを知りながら。

だがそれが、逆に人間が人間たりえる理由なのかもしれない。

だって、楽しいでしょ?  ピラミット遊び。
虚妄なものに、純粋に、屈託無く、「楽しさ」を感じることができる。
それこそが人を愛すべき点であって、僕が人間を好きな理由なのかもしれない。
まともな理性をもった人間なら、全員、発狂してしまう筈だけど、そうならないところに人間の「愛らしさ」がある。
人間の「人間らしさ」がある。
俺がともだちにしたいのは、そういうことをわかっていて、なお俺と遊ぼうなんて思ってくれる奴らです。
強大な時と、ちっぽけな我々の「あがき」
その貴重な時間のなかで「俺」を選択してくれる、殊勝な方々と僕は飲んで馬鹿騒ぎをしたく、また朝まで踊りたいので御座います。

(嗚呼、多分これがニーチェのいった、「赤子」ってゆうことなんだろう。
七尾旅人のいう赤子宣言の「赤子」なのだろう。)

僕は出来たピラミッドを、「守る為に生きる人生」ではなく、出来たピラミッドを大切な人、大切な信念の為になら、躊躇なく壊せる、差し出せる、そんな人生を送ってゆきたいと考える。

青春の響き

時代錯誤だと思った。

タバコに完全な無駄なメッセージが刻印されるこの御時世に、皆、処構わず紫煙を吹かし、吸い殻を床に捨てる。

白い煙は音に呼応するように、その部屋に充満してゆく。

遮二無二に酒をあおり、あるものは手を高らかとあげる。あるものはステージに茶々をいれ、またあるものは叫び、謳う。
ここには、まだ若者の癖に病的なまでに健康を気にし、自分の生にすら自己決定に基づく自由意志を持たないようなピエロはいない。

みんな、今を生きている。
だから、酒を飲むし、踊るし、タバコもすうんだ。

なんて、時代錯誤なんでしょう。
紫色の煙に、スポットライトのビームが照射される。

いろんな形に変化する雲のよう。

なんだか空気が具現化したみたいだ。
そして音―――音がただ我武者羅に鳴っている。
演奏者は、自分の楽器の醸成するハイな集中の瞬間によって酩酊し、めいめいの楽器をかきならしている。

生成される音は、瞬間ののち、消える。生成と消滅が同時に存在する世界。
それを示すかのような青春のスパーク。
二度と戻らない唯一の時が切ないまでに過ぎてゆく。
上手い人も下手な人も一瞬一瞬が綺羅星の如く輝いていた。

「花火みたいだなぁ」

と僕はその美しい光景をみた。
セミ研の前期のライブ。
丁度一年前、僕らはそこにいた(就職活動とゆう名目で、僕は出演できなかったのだが、今とても悔いている笑)。
今はその僕らも引退し、後輩がその順番を果たしている。
僕らは、新陳代謝の皮膚みたいなもんだ。新しい皮膚はいつしかその役目を終えて、垢になって大いなる世界へと落ちてゆく。
一事が万事そうだ。友人も、親子も、人生も。
何かを伝えたらそれで役目を終えるのが人生だ。
セミ研とゆう組織は中身を次々と変えながら、入れ物だけは多分ずっと残ってゆく。
ライブで、或る(←こんな文字を未だにつかう人ですね笑)三年生がスーパーカーを演奏していた。
僕が高校の時に聴き、大学一年の時にコピーし、二年の時には後輩に教えた曲だ。
なんだか、感慨深い気分になった。
彼ら彼女らは、確実に僕らには分からない空気を共有していた。
もう新陳代謝は始まっていた。それに気付いちゃった。

いやあ。
美とはね。
絶対的なものでなくて良いのかもしんない。

相対化がなんだ!

限定空間の認識でよいではないか?
主観的な認識を限定された空間の中で共有することに美があってもいいじゃないか?!?
わざわざ、ルネサンスを引用するまでも無かったろう。

セミ研みたいに限定された範囲の中にも美があるということを僕は直感的に悟った。
恐らくこれは何人にも論駁できるものではないだろう。

ああ、つくずく美って奴は捉え様が無い。
何処まで言ってもそこが無い。
シェイクスピアが言った
「底は底なし」
見たいなものか。
なるほろ。
その時々の捉え様でよいのか。
つまり美って奴は「嗜む」類のものなのかも知れない。
直感が昂ぶりや歓喜を嗜み、楽しむための、一種のツールなのかもしれない。

なんて。

つまり、いいライブだったよ。

後輩達よ。

これからも、キミらの美しい散り様を僕に見せておくれ。

後六ヶ月に迫った、恐らく人生の最も油の乗っている時期のキミらの歓喜を、僕は特等席で見させてもらおう。

僕の大好きなウィスキーでも飲みながら。