ふざけきれなかった、僕らの魂は・・・

「たくさんのことを生半可に知っているよりは何にも知らないほうがよい。」
とは、リンク先にも紹介したニーチェの箴言であるが、私も就職活動という人生の局面をむかえ、最近常々思う。
ニーチェを少し私なりにアレンジするのであれば、
 「無知である無能は可哀想である。しかし世の中で最も哀れむべきは、懐疑心を持った無能である」 と。  つまり疑うことのみを覚え、自分の存在の卑小さを知り、自分を取り巻く世界を何一つ変える事が出来ない事に気付いてしまった無能が、最も、この世に必要とされていない存在なのではないかと…

世の中で最も簡単な行為とは「懐疑」であり、最も困難な行為は「信頼」である。
懐疑への間口は、万人に大きく開かれている。
「なぜ私は存在せねばならないのか」「何故、大衆は盲目的なのであろうか」というように。
懐疑をすることで人は他人との差別化を図り、自らがミザリーの主人公であるかのような、捻じれた優越感に浸るのである。
そして一旦相対主義の魔物に取り付かれると、人はその甘美な魅力から逃れることは出来ない。
学生のうちはまだ良い。
内に篭り、最低な自分に酔いしれ、アンニュイな酒を飲み、モラトリアムの湯浴みをしていれば、決して困ることはない(こういう類の人間は概して完全なる孤独というものに拒否反応を示すものだ。細々とした友人関係を必ずどこかで築いている。そしてその少なさはまた、彼の優越心を強固なものにしていくことに役立っていくことに違いない)。

かくして彼は、ようやく就職活動という局面に於いて自らの存亡の危機を知るのである。
モラトリアムはいつの間にか半ば強制的に終了を告げ、懐疑で出来た暖かい家から追い出されてしまう。
社会は懐疑することを許さない。
組織を破壊することを許さない。
慣習を打破することを許さない。

従順な人間のみを社会は許容し、彼らをスターダムにのし上げて行くのである。
そんな構図に組み込まれ、人間を辞めるか、社会に反発することで人間を辞めるか…
私達にはその二つの選択肢しかのこされていないのである。
よって、冒頭の箴言および、私が考える拙言に行き着くのである。
懐疑をすることを覚えた、少年・少女は、どう生きていけばよいのか?

誰か、その答えがあるのならば教えて欲しいものだ。