幸せと天国について

「あなたにとって天国とはどんなところですか?」
という質問を投げかけたとすると千差万別、十人十色の返答がかえってくるに違いない。
あなたはどんな答えを返してくるだろうか?

ちょっと予測できる程度だと

名誉?永遠の命?金?女?(男?)学問?恋?

皆さんはおそらくしかもそれらに類するものが永遠に約束される土地を想像されたのではないかと思う。
その選択肢は世の中の欲望と同数。つまり膨大な数に及ぶと考えられる。
それは実にごもっともなことで、僕らが想像する天国とは各個人のもっとも満たしたいと考える欲望を充足させる機能を潜在的に備えているはずなのだ。
そしてその殆どは、人との関係性によって得られるもの、たとえば先に挙げた例のような、金・名誉・恋・学問のようなものである。
そしてそれはいずれも現世の想像の範疇を越えるものではない。
これらの欲望は、つまるところ、他者との相対的優位性の認識に基づく充足により得ることのできる幸せなのである。
ちょっと例をあげると
「俺はあいつより金持ちで、かつ社会的地位もあるな。」
「私はあの子より友達が多いいわ」
「自分以外の奴らはみんな糞音楽しか作っていない。どうして真の芸術性の存在に気づかないのだろう?このグルーピーどもが」
「こいつらみんなぶさいくだな」
「彼の考え方はそういった意味では学問的価値には値しないね」
「私は友達のだれよりも彼氏に愛されているから幸せだわ」
などなど、これら全て他者と自分を比べた結果、それを自らの地位や、スキルや 状況の優位性を確かめたような言動である。
つまり、いづれも他者の評価を前提を前提とした欲求なのである。
たとえば男の皆さん無人島で美女と二人になったとしても、性欲は喚起されずかえってそれは減退してしまうだろう。友人たちの評価、社会的評価を前提としての美女なのである(「そんなことはない。自分だけは精神的に愛している」というひと。それも間違いである。それはそういった人間が素晴らしいという社会的なバイアスが君の精神にかかっている。各個人の精神は決して歴史の流れから開放されることはない。そしてそれは愛も例外ではない)。
こういった欲望は幸せと連結している。
では、この欲望を世界の人々が一律に満たすすべはあるのだろうか?
ちょっと考えてみればわかると思うがそんな方法は無い。
他人の評価、他者との優位性はそこに敗者がいなければ成り立たない概念であるからだ。
幸せ自体に不幸が内在されている
つまり幸せその概念そのものが矛盾を内包しているのだ
すなわち肉体的、精神的な敗者がいてこその欲望であり、それの充足が幸せであるとすると、いわゆる「共有地の悲劇」により天国は存在しない(できない)ことになろう。
可能性がすなわち天国であり、万人の幸福であるのだ
こんなことをいっていると「人類の歴史は闘争である」なんて言い出しそうだが今日は違う。
僕は何年前だろうか?
じつは天国を発見した。
それは
「もしもBOX」

である。
衆知のように、これはドラえもんの道具である。
電話ボックスのようになっていて、その受話器から話した「もしも」の世界が現実になるという、素晴らしい不思議道具である(どうやら時間軸をずらすことで別の世界の存在をなれる道具らしい)。
これはやばい。
これが発明されたなら、先に述べた人々の果たされない欲望はすべて見事に解決される。
人々はそれぞれの評価を受けるべき世界を作り出して、美と醜による差別もないので、美女をはべらせて暮らすもいいし、この世あの世の区別の無いので、御仏の御許で湯浴みをして暮らすもいい、金銭的制約も無いので、世界の指導者になるもいい。こうすれば、少数者な不幸者などという概念もなくなり、万人の平等的幸福が実現されるに違いない(でもそんなものがあるのにどうして、ドラえもんの中の未来人はまだ満たされているように見えないのだろうか?というか、この道具は人間の根本的存在理由までかき消す装置なきがする。この道具そのものが未来を打ち壊し、消滅させてもおかしくはないだろう。この人間の苦悩こそが人間を規定するという考えは面白い。またいつかその点も触れてみたい。論理のパラドックスである。)

しかし、もうひとつの問題がある。
そもそも、全ての世界が個人の認識によって成り立つとするならば、未だ見ぬ欲求はありえない。
未だ見ぬ欲望はありえない。
人は想像の範囲内でしか望みを抱き得ないのだ。
つまりもしもBOXを人類が開発したとしても、未視の世界を見ることはできない。既知の世界の要素を組み合わせた想像力の産物以外にはなにも生まれないのであるならば、それが人類の限界ということができるかもしれない(結局は宇宙やミクロの世界の精巧で広大な構造、つまり現実の自然の圧倒的な想像力に人類は指導を仰ぐしかなくなるであろう)。
しかし、その限界を限界として考ないならば、この道具はまさに革命であることにかわりはない。
人類の幸福が相対評価から絶対評価へと移行するのだ! 
これは同時に人類の認識の革命である!
その先にまっているものが、世界の終焉なのか、究極の楽園であるのかわからないが、人類にとって当面のあいだは絶対幸福が続くに違いないであろう。

つまり僕がおもったのは、
もしもBOX≒天国

なのである。

↑天国への扉つまりヘブンズドア

随筆

《実験的に今日は普通の日記を書いてみようと思う》
昨日は2限から学校に行き、授業を受けました。
友達は一人もいないので、寂しかったのですが、とても面白かったです。
講義概要によると「ニーチェの初期学問論」がテーマだった為、二週間前から手帳に「ニーチェ」と書き込み、面接をキャンセルしたりして受けたかいがあったってもんです。
部室棟にゆく過程の道に毛虫が散乱してちりじりに飛び散っていました
頭と地面に注意を払いながら突破。
そのあと、行政法の授業を受け、それを抜け出して喫煙所で友人と三島由紀夫とフィッシュマンズを賛美する話をしました。
糞つまらない行政法を受けている間にとても面白い大江健三郎の「ぼくらの時代」に毒された僕は、世界全部が穢れているような、作為とか疚しいこととかで、みんなが動いているような、絶望的なニヒリズムに陥りそうになりながら、政治社会学を受けるが、なんだかすべてが馬鹿馬鹿しく思えて、熟睡。
ちょっとだけおきて、また健三郎。

そして、ゼミの集まり。
卒論に向けての。
ニヒリズムの泥沼にはまって大学生活を溺れたままに過ごした僕としては、そのニヒリズムとメディアの動向を分析した画期的な卒論ができたらいいなあ、などという反社会的な妄想を抱き、妄想が俺の人格であるのかわからくなりました。
けど、久しぶりに見る元気なみんなに元気を貰いました。
なんとなく、思うところがある。

そしてゼミの飲みです。
相も変わらず水掛け論の攻撃的なきく人によっては殆ど言葉の暴力に近いだろう、脅迫観念の象徴じみた僕の人生論を吹っかけたがる悪い癖にみんな答えてくれました。
「幸せ」ってなんだ?
のような、まるで35過ぎの唐突に人生に迷ったギャル男みたいな質問をw

この人たちのおかげで有意義な時間を過ごすことができました。
三年生とは全く話ができませんでした。
「まあいいか。社会に出れば、はいて捨てるほどの無理ができる。」
「これが俺の本質だ。」
と酔ってまた悪い方向に思考が向かいそうになり、訂正。
おっとと。
そのときに携帯に入っていたメモには
《新派シー》←多分シンパシーのこと
《男の評価としての遊戯》
《煙=人生》
などと書いてあったが、あまり覚えていない。
なんだろうこれw

そしてわれら時代の同胞、ゼミの仲間たちと横浜まで「面白い話」を聞きながら帰る。

一人になる。

音漏れを気にしないで、四つ打ちの裏打ちのへべれけに身を委ねる。
議論の陶酔とは一味違う、陶酔。
実は僕の飲み会の一連の流れの中に於ける人知れない密かな楽しみこそはここにあります。
それはどんなしめのアイスクリームより甘美に、どんなお茶漬けよりも僕の心を満たしてくれます。
ちゃりんこに乗りつつ、ペダルをこぎつつ、リズムをとりつつ、ひとり四つ打ちずんずんずん。
月が綺麗だったりして、ベースが効いてたりして、高音が絶妙だったりして、誰もいなかったりすると、最高です。
寂しがりの癖に、孤独も好きという、本質的な矛盾をもった小便垂れの馬鹿者が辿り着いた、家と飲み会の間にあるちょっとした猶予期間なのかもしれないですね。
記憶を全部リセットして、仕、舞えるのです。
ほんの須臾の間だけど。
そこに忘我があるから、きもちい。

そんなこんなで家に到着と同時に就寝。
今日は最終面接、まあまあできた。

ふ、普通の…日記に…ならない..
致命的にユーモアがないなあw
はい、やっぱり人間、向き不向きというものがあるのですね。

 という教訓。

虚空からのこえ

「ドアの外で思ったんだ 後十年たったら なんでもできそうなきがするって
でもやっぱりそんなのウソさ やぱりなにもできないよ
僕はいつまでもなにもできないだろう」

「空に寄りかかって二人の全てを頼って どこまでも飛んでゆく いつでも僕らを宜しく頼むよ In The Fright」

 
(フィッシュマンズ/In The Frightより抜粋)
だよおい。
どこまですごいんだよ。佐藤伸治。何回も聴いてるはずなのに胸に響く・・・。
何も、できないんだよね。きっと。ふん、僕らは、何もできないんだ。
10年たってもなんにも変わってないんだろうな。
これは諦めとか、怠惰な感覚ではなくさ。
世界って変革できるような類のもんじゃないし。
変革すら、なんの意味を持つかわからない。
多分佐藤伸治はそれを悟って、楽曲に転化したのだろう。
彼の死は、彼にとっても自殺だろうが、偶然だろうがどっちでもよかったんじゃないだろうかと思う。
だって彼は空気になろうとしていたんだから。

歌詞を調べようとして偶然見つけた2ちゃんのリンクしときます。
多分フィッシュマンズって本質的に人間の生命にアレルギーを及ぼす危険な何かを孕んでいるんですね。
2チャンねらもなんか焦ってる。
馬鹿にしきれてない。
ちょっとフィッシュマンズに入れ込んでる人なら、電車男より感動できます。

http://66.102.7.104/search?q=cache:P7GfWN4B2PwJ:music4.2ch.net/test/read.cgi/legend/<いや、そこで一番気になったのは 74 :伝説の名無しさん :2005/04/30(土) 16:14:26 「生命学者の森岡正博が↓の本でフィッシュマンズの歌詞が人を元気づける理由を書いてる  http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4888486271/qid=1114845096/sr=1-1/ref=sr_1_10_1/250-5619313-7914635
ってゆうくだり。
絶対買ってよもっと。

十全

もう既に、日本中があの列車事故のことを忘れようとしている。
このコラムに於いても僕はあえて事件に触れてこなかった訳であるが、今だからこそ、思うところを書いておきたいと思う。
僕はこの事件を通じてある二つの事柄を再認識するに至った。

Ⅰ.
一つ目は冒頭でも触れた「情報の劣化」という魔物の存在である。
この魔物は人々の忘却で成り立っている。
もしくは別の言い方をすれば「飽き」だ。
列車事故。そのショッキングな映像は当初僕たちの眼を釘付けにし、連日の話題の中心となった。

しかしどうだろう?

この一週間、僕はその話題を耳にする頻度が、そのことが議論される回数が、悉く減っていっていることを意識する。

もちろん、同じニュースを永久に報道しているわけにはいかないことは僕にだってわかる。
しかし100人が死んだ事故で、その報道としてはあまりにも忘却が早いのではないかと思うのだ。
今、テレビをつけても、くだらない日常を報道する番組と、下卑た笑いを垂れ流す番組がメインだ。ではニュースは?といえば、人々の不安と憎しみを喚起するような構造のニュースをしか報道していない。
僕は「センセーショナリズムが悪だ。」「大衆的報道が悪だ。」
と、マスコミ全体を糾弾するわけではない。

【人々の欲しい情報の帰結として、今の報道がある】

ということが言いたいのだ。
つまり、人々は自分の生活を脅かす恐怖以外の何ものにも対して興味をもっていないということである。
皆、無意識のうちに事故被害者の人間を、「運の悪い人間」として意識し、自らを「そんな事故には巻き込まれることが無い人間」と差別化して意識する。

その結果、人々の意識の中で事故は風化し、さらなるセンセーショナルな事故を求めて新たなる報道を求めるのだ。

106人という数字は一瞬にして死んだ数字にしては、リアリティーに欠けるということか。

たとえば、106人が一人一人、一日に一人ずつ殺人鬼に殺されていったなら、この事件の被害者はより強烈に国民の心に刻み込まれていっただろう。

皮肉なことに、その失われた命の重さは106人が同時に死んだことによって、悪意に基づく喪失より軽く意識されている結果となっているのである。
この根底には、先ほど申し上げた「運の悪い人間」としての差別化があると思う。
つまり、人々は自分の身の安全という曖昧な確証を、時間という費用を払って買っているに過ぎないのである。
ニュースを見て、解説者の尤もらしい説明を聞き、茶の間にいながらにしてまるでその場で見ているようなテレビ画像という千里眼を手にする。
そうする事によって、自分にとって未知で不明な意味のわからない「不安」に、何らかの解釈を与え、「既知の安心」に変化を起こし、自分の身の安全を確保した錯覚に陥る。 ニュースの存在、それ自体の機能はこれに尽きると思う。
だから、人々はそろそろこの事件に飽きてきたのである
原因も大体わかってきた(いい加減な解説者のコメントによって)し、そんなに気にすることではなくなったのである。
人々の「飽き」と「諦め」の範疇に入ったら最後、被害者関係者以外の悲劇的感情と鋳物は一年忌や最高裁の判決が下される時に、「ああそうか」と思う程度に風化していく類の情報に過ぎなくなっていくだろう。
それだけ、世間には「暇つぶし」の情報は溢れている。
まるで、空腹なイナゴの群れのように、悲劇から悲劇へと視聴者は動く。

それらが去った後は、被害者家族のマスコミに掻き乱された傷と、永久に消えることの無い怨嗟の念だけが、後塵を撒き散らす砂漠のような土地に残るのである。
Ⅱ.
少々長くなってしまったので、二つ目を手短に記そう。
この事故の原因、それは運転手のミスだろうか?
それともJR西日本側の労使関係のミスか?それとも…
と、いろいろに推測することができるが、僕ははその原因を資本主義に見る
今回の過密ダイヤにしても、国鉄の民営化にしても、それは僕ら国民が要求してなされたことである。
多分、こんな事故が起こる前までは、僕らは電車が五分遅れただけでもイライラし、「ちょっとスピード違反しても急いで来いよ」と思っていただろう。

あなたはどうか?

僕はそうだ。

自殺者がいて電車が30分遅れた時など、JRを恨むどころか、その自殺者を恨んだものだ。安全性の確保よりも、その自殺者の行為を呪ったものだ。
だとするなら、僕らが安全を確保せよ!なんていうのも実に勝手な話であり、それを断ることはJR西日本にとって、費用面でも、精神面でも難しかったのではないかと推測できるのである。

ダイヤを過密にして、切符代を安くして、かつ正確な運営をする。
それがどんなに困難で無理のあることか、僕たち消費者は意識しなさすぎた。
その消費者の無責任な欲求が、ダイヤの過密化と、懲罰の激化というツケを生み、それがあの若い愚かな運転手のじっとりと汗のかいた手の握るレバーを動かしたのである
結局、ジャーナリストにしろなんにしろ、自分たちが勝って気ままに叫んできた要求が履行されていなかった事実と、自分本位の一方的な信頼との齟齬に混乱をきたし、わめいているだけなのである。
ではなにを恨めばいいのか?
被害者家族は直接の加害者である運転手を恨めばいいだろう。
例えどんな歴史的背景があろうとも運転手には同情の余地は無い。
JR西日本は置石のせいにでもして現実逃避すればいいだろう。
逃げ回ることで気が晴れるならどうぞごかってにと言いたい。
では僕たちは何を恨めばよいのか?

それは「奢る」心を恨むしかないだろう。

私鉄との過激な競争と消費者の板ばさみにあって、JR西日本はこのような醜態を晒した。
消費者は勤勉で実直で正確な、通勤や通学の義務履行の為に正確なダイヤの運行を要求した。
それぞれ各人の義務履行の集積が資本主義のエネルギーの根本原理、競合である。
それが今回の事故のもっとも深い根にある考え方だとするならば、今回の106人もの人々を殺害したものは他でもない、「他人を蹴落としても金持ちになりたい」という理念であり、そうした欲求とそれに答えることができなかった歪みが屈折した結果、こうした傷ましい事故が起こったのである。

だとするならば、僕らはどうすればいいのだろうか?

僕は「共産主義になるべきだ!」なんていう、妄想はもちろん言わない。

戒める。

それだけでいいのだ。
安全と正確さは同時に買うことができない、という意識を今回の事故で皆で共有すべきあのだ。
そうすれば、電車が遅れようとダイヤが乱れようと憤然と要求をする無責任者はへるだろう。
無責任者が減れば、社会に於いてもダイヤの乱れで起こった遅刻などの責任はとらなくてもよい風潮が根付くだろう。
そうなれば、JRや他の私鉄も精神的金銭的な余裕ができ、安全対策への道筋も開かれるだろう(もちろん抑止力たる意見や機関は必要であるが)。
各個人が奢る心を戒める。
それが僕ら、他人の死などに本質的には対して興味を抱かない、野次馬的な傍観者たちのできる、事故被害者への精一杯の弔いとなるだろうと思う。
そうした積み重ねが、死のうと思っていない人を死ない為に、必要なのではないかと思う。
さて、報道は何故こうした未来につながる啓蒙的な活動をせずに、センセイショナルな映像を流すことののみに終始しているのか。
まったく、今回の事件で僕は人間の「業」をしか見ていないような、不愉快な気分になる。
この事件を通じて、評価すべき人間は二種類しかいない。
瞬間に生きた証を悲劇へと刻み込んだ被害者と、その生と憎しみを背負って生きる義務を負うこことなった被害者の、運命に翻弄された者の純粋な感情のみである。