訓示

・栄養のあるものを食べなさい
・勉強しなさい
・友達を大事にしなさい
・本を読みなさい
・早く寝なさい
・運動をしなさい
誰もがみな母(父)親に言われるこの愛に満ちた言葉。訓示。
これだけをただちゃんとしていればいいのだ。
人生を正しく生きる為には、これだけをすればいいのだ。
他の事の殆どは、余計なまやかしだ。
人生の肝心な事は、最初に全て教えて貰っていたんだ。
何故、わかっていて逆に走るのだろう。
何故、忘れてしまうのだろう。
何故、忘れたふりをするのだろう。

大切なもの

大切なものほど忘れがちだ
白状すると、忘れていた部分がある。
忘れていたような、見ないようにしていた節が…ある。
それは
帰れる場所
帰れる事を許してくれる場所
帰る事を遠慮できる場所
帰る事を一瞬躊躇する場所
躊躇するけど、やっぱり帰ってみると良い場所
良いけど、ずっと依存するのは申し訳ない場所
依存とも、絆とも、情とも、妥協とも真実とも 断定しにくい場所。
不愉快な現実の単なる逃避ではなく、単なる強がりや高慢をひけらかす場所では無く、そのどちらにも断定できない、…しにくい場所。
それはやはり、貴重だ。
天狗になるのは、汚い(相対性の世界では対して事なんて何もない)。
悲観逃避の仲間に没入するのは下らない(なんの変化も無い)。
中庸とも、極論とも違う、そのままに人が人として生きる上での「大切」があると、思うのだ。
あくまで僕個人として。

思想

「その背後に思想なくして、真の音楽はない。」
ってショパンが言っていたらしいよ。
だから、この仮説は真なりとは言えないけど、少なくとも我々より説得力があるこどは事実。
やっぱり、音楽には思想がいる気がする。
動機もいる気がする。
芸術にも然り。
けど反論もわかる。
どっちをとるかといったら、やっぱり思想は欲しいところ。
また、驚くべき事に二千年前、プラトンは彼のユートピア的理想国家論の中で音楽の魔について言明している。
「人々は享楽的で程度の低い旋律よって惑わされ、堕落させられて、反道徳的な感情に走るだろう。」
と、警告し音楽について厳しい検閲をすることを薦めている。
いや、まさに昨今の現状を言っているみたいだよね。
トランスとか、今の商業ロックとかなんとかさ。
人間の本質をわかっている人は予言もできるんだね。
多分イエス様も、仏陀様もそういう才能があった人なのかもね。
しかしこんな苦言もある
「世の中の大抵の人は世間の殆どの人間が自分より愚かで劣っていると考えている。」(出典不明)
らしいから、昔のプラトンもショパンもそうだったのかもしれない。
これみんなそうだよね。
俺もそう。
よく戒めないと、よく陥るよね。
対した根拠も実証もなく、侮蔑しちゃうこと。
ダメだね。
いけないね。
実際まあ、この人たちはすんごい人たちだから、凄く説得力あるけど。
神域にいるオジサマ達は芸術について何を考えてたんだろうな。
ただ
「おやじの説教と日本酒は後で利く」(白木屋の便所より)
らしいから、聴いといて損はないと思うな。
最後に。。
「芸術こそ至上である!それは生きる事を可能にする偉大なもの。生への偉大な誘惑者、生の大きな刺激である。」
「善とは何か――人間において権力の感情と権力を欲する意志を高揚するすべてのもの。悪とは何か――弱さから生ずるすべてのもの。」
(ニーチェ「権力への意志」)
卒論が色々脱線してますね。。。

「卒論から脱線した研究は楽しいものである。」

(しょうじ)

ネガとポジのパラドクス

「満たされない、満たされない」と自分の不幸を嘆いている人は、若しくは「自分にはなにもない」と悲観する人は、その「満たされない」事自体が、全ての「創作力」を生み出す力を内包するという矛盾に気づかなければならない。
「満たされない」という事は幸福であるのだ。
人間の「欠落」から「創作性」は生み出されるのだから。
「不満足」のエネルギーが、真の創作を支える屋台骨となるのである。
反対に「私は満たされている」と思っている人は、不幸である事はいうまでもない。

人は慾(カーマ)よりなる。慾にしたがって意向が起こり、意向によって業(カルマ)が生じ、業によって輪廻(サムサーラ)が決まる。

慾に溺れない様にしなければ。

いきもの

表面をすべるぐちゃぐちゃ
世界に、穢れ(けがれ)が満ちては、消える
猿どもが、したり顔ですやすや
罪なんて無いのかな
穢れなんて無いのかな
まあいいや
全員、勘違いしていればいいし
ああ眠いわ
眠りを

ポジティブについて

世間一般で、善の賞賛の力、悪の非難の力は絶大です。
人間に限らず、全てのものは評価によってはじめて価値が生じます。
評価が無い、存在の林檎は虚ろでしょう。
評価者たちは創造者となり、あらゆる物を批判し、除外していきます。
人は自分の価値観と異なるものが同じ地球上にいるのが恐怖でたまらない生き物です。
また、自分の嫌な面を持った者にも嫌悪感を覚えます。
評価者たちはこれらに軽蔑という手段で抵抗します。
軽蔑の力は絶大です。
評価のない自己は存在しませんから。
人の心には大小こそあれ暗闇が存在します。
誰かがそれを悪徳だと叫んだのです。
人は自分の嫌な面、つまり暗闇を持った隣人に恐怖をいだきます。
隣人の心など誰にもわかるはずもなく、不信は広がっていきました。
みなその不信を叫び、不信は通念を、通念は観念を作り上げました。
観念は教育や社会常識すら変革してしまいました。
「朗らかにあれ」
と。
かくして絶対善としてのポジティブと社会悪としてのネガティブが形成されたのです。
評価が自己をつくり、社会に評価されているこの構造をどうにかしない限り、
この疚しさから逃れることは出来ないでしょう。