思い通りにならない世界で。

『人生は、ままならないものである。』

それが、この旅の前後で学んだ事。

起こりうるあらゆる悪い事は起こりうるし、
楽観視は痛い目見るし、
信じても裏切られるし、
希望的観測は得てして叶わない。

期待は期待でしかない。
思いや希望なんて現実には何も影響を及ぼさない。

だから頭で分かる範囲で、理性を武器に計画を立てる。
そして身体が出来る事を行動として移した時に、始めて現実世界に少しだけ影響を及ぼす。

だがそれでも、それでも悪い事や不慮の事故は起こる。

根拠なく「進路が逸れるだろう」と希望していた台風は波照間島を直撃するし、
根拠なく治るんじゎないかと思って水没させたiPhoneは、治らなくて買い替えになるし、
そのiPhoneを買い替えた当日に、旅の残金を全部いれてた財布を置き引きあうし、
やっぱり財布は落とし物として届けられないし、
仕事は大人しく着実ににやろうと思ったら同僚から謎の脅迫を受けるし、
膝は治りにくい爆弾を抱えていることが判明する(最後の方旅に関係ないけど)。

人生にはイレギュラーな事や厄災が降り注ぎ、得てして思ったとおりにはならない。

明日家が燃えるかもしれない。
癌になるかもしれない。
目が見えなくなるかもしれない。
大切な人が刺されるかもしれない。
線路に落ちて死ぬかもしれない。

可能性が低いだけで、それが我が身に起こりうる可能性を誰もが持っている。
ロシアンルーレットの拳銃の引き金を毎日引いて、たまたま当たらなかっただけだ。

世界はままならない。
世界は、ゲームではない。
自分の期待通りになるほど甘くない。
予定調和は無い。
存在はハイデガー的世界内存在で<在る>事から絶対に抜ける事は出来ない。

肝に命じろ。
注意しろ。行動しろ。
世界は思い通りにならない。

ここで、上記論旨を反転。

逆に、ままならない世界は意図しない、想像を遥かに越えた素晴らしい一瞬を与えてくれる事もある。

それはまるで、
「その印象は非常に強くて、わたしがかつて生きていた瞬間が、現時点であるように思われた(失われた時を求めて/ゲーテ)」
のような。

卑近な考えはおろか、自分の抱えている悩み全てを吹き飛ばす圧倒的な現実。
接近し、体験する<今>。

誰もいないビーチ。

一人座す。
透き通る蒼。

なんという豊饒。
なんという横溢。

喉を通る、ぬるいビール。

自分とビールと音楽と自然のミニマル。
何時間も身を任す。

即席のドラムセットで奏でるリズム。

「異邦人」でムルソー圧倒的された<あの>太陽。
太陽!

豊かな死のような夕暮れ。

旅とは、ままならなくて予定調和とはいかない世界の無情/不条理の中に自分を投企し、その中で失望しもがきながら、<二度と戻らない>その場所で、<二度と繰り返さない>の<今>や<現在>を見つけるための装置なのかもしれない。

トルストイは言う。

「現在に対して注意深くあれ。我々は現在の中にのみ永遠を認識する」(文読む月日)

辻邦生は言う。

「<今>にこうして手で触ること-それが生きることに他ならない」(夏の光満ちて)

と。

僕はまた旅に出るだろう。
また傷つき、失望し、何かを得るだろう。

あれ?
それが生きるということそのものにほかならないような、そんな気がしてきた。のだ。

僕が旅に出る理由

「本当にいきたい所に行き、本当にしたいことをする。」
それを君(わたし)はできているのか?

最も根源的な問い。
この問いが今回の旅の発端だった。

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振り返ると、この<わたし>はつくづくお人好しであった。
今までの私は、下記のようなルール(ごく一例)をいつの間にか作って、いつの間にか自分をがんじがらめにしていた。

・将来出会うかもしれない大事な人のためにお金をためなくてはならない。
・そのためには毎月●万円貯めなくちゃならない。
・だから生活を切り詰めないといけない。
・だから今は極力家にいるのが効率的である。
・よって、家でできる趣味(ゲーム/アニメ/料理等)をして時間を潰せ。

これはもう、一行目から破綻している。
だからそれ以降の論理は全て破綻している。

<将来出会うかもしれない大事な人>は今居ない。無を無担保に最優先事項としている。
仮に居たとしても、何故自分の生より優先して金をためなくてはならないのかの論理的理由が無い。

上記のようなルールはほんの一例だ。

・人付き合いが苦手だから
・ひとりで行動するのは好きでないから
・そういう人だから
・緊張しいだから

等といろいろと理由をつけて、何かすることに怯え、何もしないでせっせと(先の見えない(笑))将来のために根拠のない投資を続け、
未来を夢見て<今>を蔑ろにしてきた。

「本当にいきたい所に行き、本当にしたいことをする。」
などというのは、

<いつか出来る>ことで<今すべきこと>でないと、当たり前に思っていた。

なんで今まで気づかなかったのだろうか。
世の中の巨大な<当たり前>に巻き込まれて潰されるが、自らが潰されることにすら気づかずに緩やかに死ぬ虫のように私の個性は盲目で貧弱だ。

いや!寧ろその<当たり前>に積極的に加担することで、無根拠に自らを与える努力そのものが生きる理由にすらなっていた!

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母の死と、とある裏切りによって、その盲目性から目覚めた。

僕はこの旅において、今までの失敗を噛み締めながら下記のプロセスを辿ることになる。

上記の問題意識からスタートし、
自らの本当の心と向き合い、
本当に問題を解決する方法を探し、列挙。
場所と行為を選択した。

スケジュールを組立て、
資金計画と食料計画を立てる。
外部と折衝し、計画を裏付ける。

人を巻き込み、
自分を新たな所に置く。

そしてこのプロセスを経て、これから私は、

そこで起こる問題と偶然を楽しむだろう。
注意深く時を味わうだろう。

生を生として生きるだろう。

そこでは<彼の地にたどり着いたその未来>には、
晴れていようが、雨が降ろうが、人と交わろうが一人だろうが何があろうが、

「本当にいきたい所に行き、本当にしたいことをする。」

という事は<達成した私>が居るだろう。
課題を<少しだけ克服した私>が居るだろう。

その自分に思いを馳せ、そしてこの旅の意味を再び噛み締めながら、足を一歩踏み出す。
さあ、何が俺を待つ。

今、わたし。

何故、今を嘆く。

何故我々は過去を崇拝し、青春を美化するのみで、<今、ここ>を卑下し軽視するのか。

例えば音楽に明け暮れた大学の頃の四年と、今の四年。
青春と今。
比較すると、誰しもが今の生活の色の無さを見出すだろう。

だが、その時間の<客観的な価値>は、等しい筈だ。
数年前も今も<時>は等しい。
ならば<時>は客観的に時は同じ価値を持つはずだ。

いや更にいうなれば、各個人の中に記憶として凍り付いて動かない<過去>と等価に、いや本来ならそれ以上に、
<今>はその一瞬一瞬のその豊かな可能性的多様性において、光り輝き、生に溢れ、素晴らしい。

上記のような客観的状況があるにもかかわらず、過去と今、その問題で悩むとすれば、
その時間軸で変わったのは、時の受容体側。
つまりわたしだ。
主体だ。

世界を観測するのは、私ひとりしかいない。
そして、その観測の仕方は私自身に任されている。
その事実を悲観せず受け止め、逆手にとって自ら選択し、行動し、自らを新しい世界に置く。

僕らは、今からでも何度でも何回でも何百回でも、自ら望めば、選択すれば、素晴らしい瞬間に出会える筈だ。

ではいつ、その果実を摘み取るのか。

過去ではない、未来でもない。
それは今だ。

「過去の自分」に耽溺したり、「未来の自分」を最優先するために、今の自分と時間を蔑ろにするほど馬鹿な事はない。

【かって幸せだった自分】
  や
【いつか幸せになる自分】

を夢見るのは終わりにしよう。

今、人生の芳醇を積極的に味わおう。

今、
わたしが、大事な人に会いに行こう。
今、
わたしが、美しい世界を見に行こう。

正しい希望の失い方

誤った絶望=
世界に形而上的な意味がない事を知り絶望するが、
その虚無の巨大さにやがて盲目になり、
自らの本質的な価値を外部である<他者(他人だけでなくその価値観も含む)>に依存し投げ渡す事に、
誤った世界の意味を求め、自らの生を蔑ろにし消費し、無意味を更に無意味化する、
半自殺的絶望。

正しい絶望=
世界に形而上的な意味は無い。
よって<世界の内にある他者>も、わたしにとっても等しくその意味はない。
そう正しく理解した上で、それでもなお自らその無を引き受け、
ただ一人で立ち、
それでもなお他者と向かい合い、生きる絶望。

この2つの絶望は入り口は同じだが、
その結果は、一方の彼岸からあの世を、この世を見るがごとく遠く、違う。