メゲモニー

今日は、とある某眼鏡会社のセミナーにいってきた。
僕は戯れにその会社にエントリーシートをだしたのだが、運が良く(?)通過し、今日は筆記試験と、説明会であった。

!!
一時に会場につくとそこには予想だにしなかった光景がひろがっていた。
眼鏡、眼鏡、眼鏡…
眼鏡、眼鏡の群…

いや、私は気づいていた。
会場の赤羽駅から眼鏡の、男女の一塊が、群をなして歩いていた事を。
眼鏡、眼鏡の群…
そしてその群が恐らくある一点を目指して、まるで鮭の産卵の如く猛進している事を…。(会場にあがるエレベーターに至っては、眼鏡人口が100%だった!
右をみても眼鏡…
左をみても眼鏡…

これぞまさに僕の思いえがいた眼鏡の国…
眼鏡の理想郷…。
そう、眼鏡の眼鏡による眼鏡の為の会社だった。
眼鏡が眼鏡として社会的地位を確立し、眼鏡独自のアイデンティティと、眼鏡の自治を確立し、眼鏡が眼鏡の法によっておさめられる、眼鏡の自由!
そこでは、男女の差はない…
もはや両性有具と変わらぬ、絶対の平等と平和!
ブルジョワジーへの無言の反抗の萌芽がそこには芽生えていた…。
しばし恍惚としながらその眼鏡の山をみやって思った。
「…もはや、眼鏡の国家は理想ではない。」
革命はすぐそこに迫っていた。
(…こんなにも眼鏡が存在していたとは!)
(…こんなにも眼鏡の似合う人間がたくさんいたとは!)
眼鏡達はやがて眼鏡会社の一室にに吸い込まれていった。
我が眼鏡の同胞は皆、一律に真剣なる決死の形相をして、眼鏡会社の眼鏡アナウンサーから、紹介された眼鏡人事から眼鏡会社のマーケティングと眼鏡の経営戦略をきき、眼鏡の商法や眼鏡の教育制度を眼鏡の総務からきいた。
眼鏡の若手社員から配られた、眼鏡の為の試験をうけ、「これからの眼鏡会社は眼鏡を売るためになにが必要か」という「眼鏡の作文」をかいた。
眼鏡の伝導師。
すなわち「愛の伝導師」となる為に。

眼鏡達は、眼鏡試験を終えた。
彼らは眼鏡の一群としてまた各家々へと帰っていった。
それぞれの眼鏡への思いを秘めて。
まさに、怒濤のような眼鏡の一日だった…。
僕らは眼鏡の日だった。
世間のみんなは幸せなゴールデンウィークであった。
この眼鏡という機械的で喜劇的なな響きと、ゴールデンウィークといぅ幸せな響きとで、まるで美しいコントラストのようだ。
美しいクラシックの四重奏をきいているような心地の良い気分だ。
眼鏡とゴールデンウィーク。
眼鏡とゴールデンウィーク。
あは。
あははははは。
はははははははははははははははははははははははははははははははははははははははは。
皆…眼鏡の準備はよいか?
革命の季節はもうすぐそこだ…。
(ところで僕はその時、眼鏡同士としては、あるまじきある奇妙な感覚を覚えた。眼鏡だらけのところにいると眼鏡である自分の個性が没個性になってしまい眼鏡としてのアイデンティティが崩壊の危機に晒されようとするような感じだ…。僕も知らず知らずの間に、自己を眼鏡として、眼鏡を自己としてとらえ、眼鏡をアイデンティティとしていたのかもしれない…。こんな考えでは革命のぺ書記長の補佐としての任務が務まるか疑わしい。激しく反省し、自己規律を見直すとともに、最低「眼鏡党宣言」を百回は再読し、滝にうたれなければならん。いかんいかん。)
↓眼鏡神社

「上を向いて歩こう」

ときおり、頭からあるメロディーがはなれなくなって困る事がありません?
しつこいメロディーってありますよね。
僕の場合は、レディオヘットの「ナショナルアンセム」のリフがずっと頭の中をサブリミナルループをし、鬱みたいになってまったく寝れなくなったり、スパルタローカルズの「マイノリティ」が企業の面接の前にループし続けてなんだか愉快になって面接どころではなくなったり、RIP SLYMEの「ファンタスティック」のペスのライムだけが、百回くらいずっとループして、エントリーシートで無意識に韻を踏んでしまったりします。
そうなると日常生活に支障をきたしますよね…。
そんな時皆様は、何をしますか?
如何にして紛らわしますか?
僕はそう、日本の不滅の名曲「上を向いて歩こう」を頭のなかで何回も歌います。
がらにもなく。
はい。
笑わないでください。
するとあら不思議、いつのまにか頭の中のうざいメロディーは消え去り、後は澄んだ心が残るだけ。清浄な心になります。
あの曲は聖すら感じます。
あの曲だけは、どんな心境にもマッチするし、しつこく付きまとわれる気はしないんですよね。
幼少の頃から実はずっとその習慣があるのに、飽きることはありません。
どんなにたくさんの音楽をきいても、結局帰ってくるところは「上を向いて歩こう」だとしたら、あの曲は僕の一番好きな曲ということになるのかも知れません。

らせん階段

今日は、大学一年の時の友人に邂逅した。
彼は、二年次に大学編入試験を受けて、今はマスコミ業界を目指しているとのこと。ゆくゆくは作家になることを目指しているとのこと。
本当に偶然出遭った為、びっくりしたが、しばし久々の議論に花を咲かせた。
今日の試験の課題が「殺人を正当化できない理由」だったため、ひととおりの人生、生物、倫理の話題を話した後に、ある一言を言われた。
いや、しかしやられた。
いい得て妙、とはこのことだ。

お前はね、死なないよ。お前はね、死を見詰め、死を考えることによって確実に〔生きよう〕としている

と、言われた。
なるほど。
気づいていなかった。
完全な盲点だった。
自然選択説をを振りかざして、ニヒリズムを気取ってきたが結局のところ俺は完全に生きることに完全に『執着』していたのだ。
つまり、いいたいことはこうだ。
俺は、なんだかんだ言って、「生は空しい」とか「答えはないんだ」みたいな厭世的なことをさんざ言ってきたが、俺が書物を貪り読んだり、議論に耽溺するということは、そのなかから導き出されるはずの「答え」を捜し求めてもがき苦しんでいたにすぎない。
つまり誰よりも「生」に貪欲であり、「生」に執着していたのだ。その意味の所在を信じ、何か奇跡と美を無意識的に捜し求めていた過程だったのだ。
彼のいうとおり、こんなことじゃ、俺は死ねないだろう。
死を望んでいないにしろ、死ぬなどということものたまえなくなるであろう。
糞。
なんて、中途半端なんだ。
ほんと自分自身の生の半端さに嫌気がさす。
生命の奔流に飲み込まれていく中で、どうしても乗り越えなければならない壁があると思った。
彼はこういった
「俺が死ぬときに満足して、死ねたらいいや」と。
俺の相対主義と、唯物論と、唯識論が「死の哲学」だとするならば、彼のモチベーションは「生の哲学」であると思った。
生を見据え、生を真っ当するか。
死を察し、生を達観したところになにか意味を見出そうとするのか

その答えもすべて、主観による、選択のなすべきことである。
彼の選択も、俺の選択もある意味では正しいのであろう。
俺は何をしたいのか。
そのことを考える良いきっかけとなった。
意義深く死ねる時があれば、死ねる人間であればいいと思った。
ありたいと思った。
やっぱり、俺は中途半端には行きたくない。
それは、彼の意図の反するところではあるし、情熱家の彼の事であるので、反発にあいそうではあるが。

死を模索することは、生に執着することなのか。
この逆説は、しばらく俺の中でひとつの大きいテーマとなりそうである。

寂寞

この世界は「無」だ。
唐突であるが、今日いきなり気付いた。
いや、実感した。

例えば、寝てるとき。
僕が寝ているときに、隣で人が殺されたとする。そこまで行かなくても、僕の知らないところで何か悪事が行われたとする。
僕が寝ている時に起こった殺人。
それが血痕だとか、匂いだとか、そういった事が起こった証拠を僕が気付くことがないように隠滅したのであれば、その事実というものは無いに等しいだろう。

つまり僕の自意識が存在しない所には、世界は存在しないのだ。
世界は、僕の自我の下で形成されている。
そういったことに矛盾を感じたとして、僕の自我の拡張を図ったとしても、そりゃあ、たかが知れている。
ましてや、こんな薄っぺらい皮一枚に肉と骨と血を包容している脆い僕の肉体などというものは明日、あさって、一年後に存在している確証などはっきりいって無いに等しい。
脆弱な肉体と、それに包まれた自我は、自我自身によってその価値を付随しようともがき、他者との差別化を図ろうとし、無意識的に「我」の価値を信じて疑わなくなる。
「彼」と「己」は深遠の淵に隔たれているような錯覚を抱くことがあるが、僕はそれはあんまし関係のないことなのではないかと思う。
人生はあまりにも短く、あまりにも軽薄だ。
そんな、たかだか80年の人生。
自分の自我が世界を作り上げるのだとしたら、世界というものも80余年の寿命をしかもっていないということにならないか?つまり、今の世界が存在しているという確証は、自分という存在の自己意識による証明によってのみしか、得る事が出来ないのである。
自分が死んだ後の世界。
それが存在するかも証明できない。
自分が存在する前の世界。
それも「我」が作り上げた壮大な妄想に過ぎないのかもしれない。
「我思う故に、我あり。」
その言葉の範疇以上のことを我々は何も証明できないのだ。何も。
自分が、自意識が脆弱だとするならば、その定立としてこの世界も脆弱である。
「そこ」と「かしこ」の間にはなにも差などないのだ。
つまり、自分の存在以上の世界が存在しないのならば、「最初から世界は存在していないのではないか」ということにならないか?
全部虚妄のお遊びで、たちの悪い冗談なんじゃないだろうか。
世界<0>に向けて我<有>をいくらぶっつけ続けても、なにも、何も意味が無い。
つまり「最初から、世界は存在していない」のである。
【いや、こんなまどろっこしいことをいわなくとも、「永遠なる有」が存在ない時点で、全ては無であるということが出来るか。
もう、よくわからん、梵にはいり、アートマンと一体化したいものだ。
なんか、柄にも無く「全体」を信じたくなった。】
「あはは、じゃあ、死ねば?」今にもそういう声が聞こえてきそうである。
確かに世界そんなにも嫌だ虚無だと、言い続け、アホなくせに悪い思想ばかりを書きなぐり、変な影響ばかりを周りの人間に振りまいてばかりいる僕は健全な人生を送ろうと考えていらっしゃる方には害虫みたいなもんで、今すぐに死んでしまったほうがいいかもしれん。
しかし、わかってますよ、僕が弱虫で腰抜けだって事は。誰よりも。
そんな度胸もありゃしないし、痛みにも、悲しみにも、トラウマみたいなんに近いもんが邪魔をして、死ぬことすら出来やしない。
けどね。
自殺をするということは世界を殺すということです。
自我を抹殺するということは、世界を抹殺するということで、僕はそこまでまだ世界を憎んじゃいない。
むしろ、愛すべきものがたくさんあって、そんなもの達はまだ、世界から消してしまいたくない。
自分の自我が健全で、そういったものに美しさや、暖かさを感じるとが出来るうちは、観察者でいようと思う。
しかし、老いて行く上で世界を穿った見方でしかみれなくなり、世界を曇ったレンズを通じてかみれなくなってしまったときには、死んでもいいんじゃないかと思っている。
世界を醜悪としてしか、構築できなくなってしまった「我」はもう、いらんでしょう?
結局、息も切れ切れに、地べたを這いずり回って生きていくしかないんだろうと思う。
その中で、本当に価値のあるもの、自分の信じる「美しいもの」。そういった物を見失いたくない。
この世の中が、自我で成り立つ儚い夢のようなものであるならば、せめて僕は優秀な観察者でありたいと思った
たとえ、世界が太虚の中にあろうとも。

ああ

「ヨイトマケの唄」
「働く」という事の本質が全て唄われている。
そんな感じがした。

人は慾(カーマ)よりなる。慾にしたがって意向が起こり、意向によって業(カルマ)が生じ、業によって輪廻(サムサーラ)が決まる。

慾に溺れない様にしなければ。