幸せの変容

旅行中、幸せだなと感じるポイントが変わった。

昔はビールを飲み、太陽の光を浴びて音楽を聴いたとき、いい景色を見たとき、異国で苦難を乗り越えたとき、想像以上のうまい店を見つけたとき、旅先の人と触れ合ったとき。

今は子供と家族の笑顔を見たとき、成長を感じたとき、家族みんなで笑ったとき。

旅の目的と意義は人生の時々で変わる。

変わったことに気づけないで、以前の尺度で考えていると、損した気分になってしまう。

今、自分は何を幸せと感じていて、何に意味を見出しているのか。

それを認識して、理解して、腹落ちさせることが大切である。

思い通りにならない世界で。

『人生は、ままならないものである。』

それが、この旅の前後で学んだ事。

起こりうるあらゆる悪い事は起こりうるし、
楽観視は痛い目見るし、
信じても裏切られるし、
希望的観測は得てして叶わない。

期待は期待でしかない。
思いや希望なんて現実には何も影響を及ぼさない。

だから頭で分かる範囲で、理性を武器に計画を立てる。
そして身体が出来る事を行動として移した時に、始めて現実世界に少しだけ影響を及ぼす。

だがそれでも、それでも悪い事や不慮の事故は起こる。

根拠なく「進路が逸れるだろう」と希望していた台風は波照間島を直撃するし、
根拠なく治るんじゎないかと思って水没させたiPhoneは、治らなくて買い替えになるし、
そのiPhoneを買い替えた当日に、旅の残金を全部いれてた財布を置き引きあうし、
やっぱり財布は落とし物として届けられないし、
仕事は大人しく着実ににやろうと思ったら同僚から謎の脅迫を受けるし、
膝は治りにくい爆弾を抱えていることが判明する(最後の方旅に関係ないけど)。

人生にはイレギュラーな事や厄災が降り注ぎ、得てして思ったとおりにはならない。

明日家が燃えるかもしれない。
癌になるかもしれない。
目が見えなくなるかもしれない。
大切な人が刺されるかもしれない。
線路に落ちて死ぬかもしれない。

可能性が低いだけで、それが我が身に起こりうる可能性を誰もが持っている。
ロシアンルーレットの拳銃の引き金を毎日引いて、たまたま当たらなかっただけだ。

世界はままならない。
世界は、ゲームではない。
自分の期待通りになるほど甘くない。
予定調和は無い。
存在はハイデガー的世界内存在で<在る>事から絶対に抜ける事は出来ない。

肝に命じろ。
注意しろ。行動しろ。
世界は思い通りにならない。

ここで、上記論旨を反転。

逆に、ままならない世界は意図しない、想像を遥かに越えた素晴らしい一瞬を与えてくれる事もある。

それはまるで、
「その印象は非常に強くて、わたしがかつて生きていた瞬間が、現時点であるように思われた(失われた時を求めて/ゲーテ)」
のような。

卑近な考えはおろか、自分の抱えている悩み全てを吹き飛ばす圧倒的な現実。
接近し、体験する<今>。

誰もいないビーチ。

一人座す。
透き通る蒼。

なんという豊饒。
なんという横溢。

喉を通る、ぬるいビール。

自分とビールと音楽と自然のミニマル。
何時間も身を任す。

即席のドラムセットで奏でるリズム。

「異邦人」でムルソー圧倒的された<あの>太陽。
太陽!

豊かな死のような夕暮れ。

旅とは、ままならなくて予定調和とはいかない世界の無情/不条理の中に自分を投企し、その中で失望しもがきながら、<二度と戻らない>その場所で、<二度と繰り返さない>の<今>や<現在>を見つけるための装置なのかもしれない。

トルストイは言う。

「現在に対して注意深くあれ。我々は現在の中にのみ永遠を認識する」(文読む月日)

辻邦生は言う。

「<今>にこうして手で触ること-それが生きることに他ならない」(夏の光満ちて)

と。

僕はまた旅に出るだろう。
また傷つき、失望し、何かを得るだろう。

あれ?
それが生きるということそのものにほかならないような、そんな気がしてきた。のだ。

正しい希望の失い方

誤った絶望=
世界に形而上的な意味がない事を知り絶望するが、
その虚無の巨大さにやがて盲目になり、
自らの本質的な価値を外部である<他者(他人だけでなくその価値観も含む)>に依存し投げ渡す事に、
誤った世界の意味を求め、自らの生を蔑ろにし消費し、無意味を更に無意味化する、
半自殺的絶望。

正しい絶望=
世界に形而上的な意味は無い。
よって<世界の内にある他者>も、わたしにとっても等しくその意味はない。
そう正しく理解した上で、それでもなお自らその無を引き受け、
ただ一人で立ち、
それでもなお他者と向かい合い、生きる絶望。

この2つの絶望は入り口は同じだが、
その結果は、一方の彼岸からあの世を、この世を見るがごとく遠く、違う。

選択と時間

価値の在る仕事とは、

⒈ 正しい目的意識を持ち、
⒉ 仮説の精度を上げ、
⒊ 解の質を高め、
⒋ 自らの作業効率を見直し、
⒌ 具体的に工程を組んで改善し、再生産する事

である。

サラリーマンになり、覚える段階を越え、仕事に対して余裕ができて自我が芽生えると
⒈を覚えさえすれば、⒊までは大なり小なり誰しもが目指すになる。

だが、さらにある程度時間が経つと、
3.と4.の段階の中間で仕事が「こなせる」事を覚える。

下手に利口になると⒌を自らに課す事について、見てみないふりをするようになる。
楽だから。

その仕事の「楽」をどう捉えるかがきっと人生の満足度にとって大きな差を生むのだろう。

1. 楽した時間を目的意識を持って別のことに使う
2. 楽した時間をTVや他人の付き合いやどうでもいいことに使う

自らの価値のある仕事にも向かず、プライベートも目的意識のない2の領域は不毛だ。
停滞だ。人生の浪費だ。

そこに自分の人生を突っ込まないよう、
仕事に於いてもプライベートに於いても常に目的意識を持つことが、
何者かの奴隷状態から人生を勝ち取り、開放する最初の一歩なのだ。

影響力

全ての人間に、影響力は無い。

富める者も、
幸せな者も、
世に認められた者も、
愛される者も、

そうでない者も等しく無い。

そもそも、モノに属する動物は世界に意味を与えない。
影響とは「自我を持った人間」が「他者」に対してのみ与えるものである。

世界そのものはそれ単体で意味は無い。

世界に意味を観測するのが人間なら、価値をつけるのも人間。
付けられた価値を忘れ去るのも、人間。

とするなら世界の中に放り出されて在る、我々の個人の存在は根拠のないものだ。

世界に触れている、変えられるというのは錯覚だ。
そうでもしないと生きていけないから、周りの「人間」の反応を、自己評価の価値に変形して錯覚しているだけだ。

誰かにそれがあると思い、自分の人生を思い煩うのは、誤解であり奴隷根性であり、人生の唾棄だ。

本質的な影響力は誰にも、無い。

等しく全ての人に無い。

平等に。

引き算

朝起きたら布団の中でTwitterとFacebookとインスタグラムの更新状況をチェックし、
起き上がると同時にTVをつけてザッピングし、
トイレを済ませながらマンガを読み、
イヤホンを耳に差し込みながら家を出て、
通勤電車内ではRSSで取得した2ちゃんまとめや有名ブロガーの更新情報をただ眺め、
全部見終わるとまたSNSをチェックしてる頃に会社につき、
コーヒーをいれ、PCを立ちあげて、
経済、広告業界、事件、芸能ニュースに目を通し、
メールをチェックし、
昨日と未来のTODOを整理し、
仕事に取り掛かる。

仕事の合間にも情報は押し寄せ、
また自らもSNSやニュースサイトに情報を取得しに行く。

帰り道も、帰っても、情報は山のように押し寄せてくる。
また自分でも中毒のように情報を取りに行く。

これがいつもの一日の過ごし方。

振り返るとその情報のすべてが自分の遠くで起こっている事象の単なる確認に過ぎず、それを得ることによる安心のために情報を触れたいという欲求過ぎず、つまるところはそのすべてが自らの血肉にならない「寂しさ」や「不安」の塊のクソだと気づく。
あゝ、クソと戯れるために残り少ない貴重な時間を切り売りするなんて、なんて壮大な人生の無駄使いだ。

こうして泥酔の翌日の悔恨のように、その情報の津波から逃げたくなる。

そう
ミニマルな世界へ。

ミニマルとは、「最小限の」という意味である。

多くの情報から大切な情報のみを選択するという事。

人生から情報を引き算をしなくてはいけない。
大切な情報だけを選択し、摂食する。

これが人生を豊かにするヒケツなんじゃないかと最近思う。

ちゃんとしたものを食べ、
読み、
見て、
聞き、
書き、
動き、
話す。

なかなかどうして社会や依存はそれを許してくれないけど、
意識することで多少、変わるんじゃないかなと思う。

足し算はもういいだろう。
人生に本当に必要な事だけ、それだけを摂取していればいい。

何が幸せなのか、何故生きるのか、どう善を成すのか、どう死ぬのか。
考えるべき大事なことは山ほどある。

引き算だ。
常に、引き算を心がけよう。

先日、富士五湖の西湖に行き、数時間程座って、湖面を眺めていた。
碧い空、ゆっくりと動く雲、しんとして鈍色の鏡のような湖面。
引き算を重ねた景色。

その時間は驚くほど何もなくて、信じられないくらい豊かだった。

ああ、またあそこに戻りたい。
戻って、座わりたい。

それでいいんだ。
それだけで。

思え。

孤独を恐れるな。

傷つくことを躊躇するな。

理性を重んじろ。

学べ。

反省と後悔を混同するな。

今できることを先延ばしにするな。

判断し、選択しろ。

自分を肯定しろ。

<自分以上には決して>他人を理解出来ない

結局の所、人は自分以外の人間、ようは他人全ての思考や、その瞬間的な広がりや、その善悪の深度についてや思惑や愛や作為やそれらにまつわるすべての事柄について、自分を基準とした類推をする事しか出来ない。
<自分以上には決して>他人を理解出来ないという絶望的な谷は、そこに原因がある。

感受性の衰え

友人が薦めてくれた下の詩。
読まされたときは何となく読んだけど、今日なんでもなく丸の内を歩いていたときに思い出した。
染みた詩って、心に折れ目のように刻み込まれるんだな。

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「自分の感受性くらい」 茨城のりこ
ぱさぱさに乾いてゆく心を
ひとのせいにはするな
みずから水やりを怠っておいて


気難かしくなってきたのを
友人のせいにはするな
しなやかさを失ったのはどちらなのか


苛立つのを
近親のせいにはするな
なにもかも下手だったのはわたくし


初心消えかかるのを
暮しのせいにはするな
そもそもが ひよわな志にすぎなかった


駄目なことの一切を
時代のせいにはするな
わずかに光る尊厳の放棄


自分の感受性くらい
自分で守れ
ばかものよ
http://uraaozora.jpn.org/poiba4.html
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時を無駄にしてはいけない。
弱い心を何か違うもののせいにするな。

数cm

明日の今頃には10,000km彼方の知らない街にいることは可能だが、

どうやったって、どう努力したって絶望的に届かない数cmもある。