世界一の微笑

棺桶に入った母と、二人で最後の酒を飲む。
色々と謝らなくてはいけない事があって、
酒を飲みながら謝る。
うっすらと微笑みを浮かべているような、母の顔。
何も喋らないけど、
全てを赦して貰ったような気がした。
母の愛に甘えた後付の解釈をしてるのか、それが正しい事なのか、分からない。
でも、多分、きっと、間違えてない。
ありがとう。
最後まで、ありがとう。

力ない母を、ほっそりしてしまった母を、そっと抱き締める。
少し安心したようで、呼吸が緩やかになる。
痩せて骨ばってしまった母の身体。
だから余計に直に響く心臓のリズム。
喋らなくなってしまった。
お風呂沸いたよと、言う事もなくなってしまった。
指を握ってくれなくなってしまった。
寝ている僕に毛布をかけてくれる事もなくなってしまった。
帰宅時間を尋ねるメールをくれる事もなくなってしまった。
ワイシャツのボタンをとめてくれることもなくなってしまった。
でも、
その温もりと心臓の鼓動はからは、紛れもない愛を感じる。
途方もない愛。
抱き締めた母の胸から、直接、暖かい安らぎを感じる。
僕はいつも、捻くれたように振る舞い、厭世的な事ばかり言い、ネガティブな事ばかりいっていた。
自分を卑下する事に慣れていた。
だが、これからはそれも改めなくては。
僕には母からもらった物がある。
一番大きなプレゼント。
誇らしい、誇らしい、プレゼント。
それは、間違いなく僕の中にある。
暖かく、わかる。
辛いけど、
その贈り物に恥ずかしくない人生を送るよ。
絶対に。

痛み

実家に戻ると全ての物が母の思い出に溢れている。
ありありと思い出せる。
フラッシュバックする。
声が。
仕草が。
愛が。
どこをみても、胸が痛い。

夕暮れ

窓の外からは、遠くで子供たちが遊ぶ声。
優しい夕日が差し込む病室。
安らかな寝顔ですやすやと眠る母。
この時間がずっと続けばいいのに。
と、罪な事を思う。

無い

現実に、筋書きなんてない。
起承転結なんて無い。
起こる事が、因果の結果に起こるだけ。
美談なんて、それに都合よく後付けしただけ。
現実は、美しくもないし、綺麗でもない。
トイレにいっている時、食事を買いに行ってる時に、なくなっているかもしれない、怖い。
形の無いものの殆どは意味がない。
ただし、形のないもののなかで、母に貰った無償の愛だけは、ここにある。
心の中にしっかりとある。
わかる。
暖かい。

世界に一つ

世界にひとつしかない、お袋の手。
世界一のお袋の手。
俺を形創ったお袋の手。
その手の温もりは昔のままなのに、数日のうちに骨になるなんて。

呼吸

次の一息で最後になるんじゃないかと、何度も思う。
大事な人が息をし続けてくれてるという、当たり前のことをこんなにも有難いと思う。

しん

しんとした病室に、母と二人。
力がなくなってきているのか、胸水のためなのか、時折、呼吸がとまり、このまま止まってしまうのではないかと思い、堪らなく胸が痛い。
無力感で、唐突な事で、あまりの事実の大きさに、考えがまるでまとまらない。
幾千、幾万の料理を作ってくれ、僕を抱き締めてくれ、叱ってくれ、教えてくれた、母の手はもう動かない。
温もりだけは、昔のまま。
その温もりさえも、間もなく失われ、二度と触れることも出来ないと思うと、寂しさが込み上げてくる。
だから、今はこの、
闇に落ちていく時間。
夜の底で二人。
手の温もりを忘れないぞと、胸痛みと共に胸に刻む。