「理想の素晴らしい今ではない何か」と「今の自分」を比べる無意味さについて。

あいまいにしか思い出せない単純化された過去の自分を回顧して懐かしむ。
本やメディアで啓発された立派な自己像を夢見てみる。
人の言う、人の常識に翻弄される。
それら、「今の自分じゃない何か」を今の自分に当てはめて、その【差分】を課題と思ってみたところで無駄だ。
なぜならそもそも自分自身ですら把握出来ない程、
・複雑で
・多様で
・雑多としていて
・毎日変化する
・複合的で
・理解不能な
「今の自分」と、
・一面的で
・主観的で
・わかりやすくて
・普遍的で
・単一的で
・理解しやすい言葉でできた
誰かが啓蒙のために創った「概念」や、自分が思い出せるだけの今眼前にないペラペラの「過去の自己イメージ」や、人が生成する主観的な「普通の常識」などといったものとでは、そもそも、比較の指標が違うのだから、正確な比較などできるわけもないからだ。
∞である自分と、何かしらの1とか8とか33の別の指標を比較してみたところで、なんの意味があるだろう。
だが、それでも比較をしたならば、
永久に主観的な(あるいは客観的な)差分は埋まらず、自己像やアイデンティティは欠損したままとなる。
死ぬまで不足感や欠乏感は拭えない。
進歩進化進捗。
過去はよりよかった。
未来はよりよいものだ。
他人はもっとすごい、素晴らしい、常識的だ。
そんな進歩進化進捗を根拠とした意味と根拠の無い比較、否定の因習に囚われていたら、今の自分は誰が認めるのだろう。
誰が愛するのだろう。
いつ、【そこ】に到達するのだろう。
だから思う。
複雑で、変化し、捉えようのない、あるがままで美しいこの世界を、自分を、他者を、できるだけそのままで愛そうと。