旅の一日の終わりに

旅先でヘトヘトになるまで歩き、帰ってきたホテルで呑むビールが好きだ。大好きな音楽があるとなおいい。

火照った身体を、静かに収める時間。

遠く離れた地から、人生を振り返る時間。

旅先で聴いた曲は、その時感じた旅情をありありと思い起こさせてくれる。

https://youtu.be/6u_GuyvhGwU

音楽はずっと変わらない。

でも僕たちは年を取る。
大きくなる子供、年を取る家族。

変わり続けて行く世界。

せめて音楽の中だけには、時間を閉じ込めておきたいと、旅の最後に、またビールを呑んで、音楽を聴くのである。

ライブ(ショー)における主体と客体の関係について

ライブ(やなんらかのショー:以降ライブ)を観に行く度に僕は、いつもクラブの誰もいない自分だけの空間に逃げ込みたくなる。

観客であるところの僕はいつも突っ立って、ステージで起こっていることはそっちのけでチカチカと光るライトのように散発的でまとまらない思考を持て余している。
煌びやかなステージ観ているようでまるで観ずに。

そうしてやがて暫くすると僕はやっぱりあのクラブの隅のスピーカー前の、ただ真っ暗で延々と馬鹿でかい音が鳴る、たった一人の空間に逃げ込みたくなるのだ。
 
この正体不明の居心地の悪さは、僕が学生の頃から感じていた違和感で、観る側の時も、演る側の時もずっと感じていたことである。

ライブを演る側と見る側は一見、
主客の関係あるようだが、それは違う。
 
演者は「次のフレーズなんだっけな」とか「今日は客の入りいいな」とか「音の返りがちいせえ」とか「うっひょ~サイコー」などと思い、
見る側は「あのベースうめえな、ひけるかな」とか「このあと何食いに行こうかな」とか「おっいい曲」とか「隣の子かわいいな」などとバラバラの事を思っている。
 
 
つまり演者にとって、自らが主役で、客は文字通り客体であるが、客にとっては演者が客体であって、客(自分)が主役であり主体なのだ。
 
結果、ステージの向こう側と此方側には大きな感情の量的・質的なギャップが生じることになる。
聞いて欲しい側と、聞かされている側。
それはどちらか高いほうから低いほうに水のようにそれは落ちて、淀む。
 

考えてみれば当たり前のこの事実があるのに、殆どのライブでは日常生活から切り離されたある時間拘束され、非日常的な空間であるということで、半ば強制的に客体である事を強いる事が許される。そんな客と演者での共通認識が出来上がる。拘束され、自由を奪われているストレスを忘れたふりをする。
 
結果、なぁなぁな雰囲気が完成する。
 

クラブでは状況が全く異なる。
演者が不在な故(DJは居る事には居るが存在そのものは)、目を瞑れば客は純粋に客のままで主体でいつつける事ができるのだ。
 

一方で思いも寄らない凄まじいライブや、自分が心酔しているアーティストのライブを見る時、人は限りなく無私に近くなる。
 
伝える側の伝えたい事が聞く側を圧倒し、客の思考を占拠する。
または、聞く側が演奏する側を初めから心酔していて余計なことを思考する必要もない。
極稀に、その二つの熱量が均衡になる。

こういう、ライブがきっと間違いなくいいライブであるが、あまり現実的にたくさんあるというものではない。

この不均衡がきっと、僕の感じていた居心地の悪さなのだろう。
と、少し整理。

<蛇足>
広告屋は対案を出さなくてはいけません。
もしライブハウス(に限っていうと)を上記主客の視点からハード(仕組み)的に変えることで、色々と集客や、文化面でも発展の可能性があると思います。
(要は参加型ってことなのかもしれないけど…。)

 
・踊れるようにする(主格の逆転)
・モニターを複数設置する(主格の曖昧化)
・踊るスペースをメインにし、演奏するスペースをサブにする(ダンスホール形式)
・酒を配る、振る舞う(自費で)
・飲み放題にする(その代わり値上げでも)
・食事を振る舞い朝までのイベントにする(プチフェス化)
・演者のプロフィールを配る(物語の構築)
・ブッキングライブのネットオープン化(ソーシャル化)
・ブッキングでは無く、ジャンル毎のセグメントを行う(ジャズが見たいとか、下北沢系がみたくて聴きながら酔いたい踊りたいとかそういう人の新規ニーズって全部クラブに取られてる)
・投票による審査を行い、クオリティを担保する(ライブハウスの客層改善)
・出逢いを提供する(出会い厨からの課金)
・ライブそのものの価格を下げる(通りがかりの音楽ファンニーズ)
・飛び入り参加スペースを作る(究極の主格逆転)

春夏秋冬

下記、まるっと転載。
今になってわかる、この歌の奥深さ。
俺は何を始めるのだろうか。
何を終わらすのだろうか。

———ここから————————-

季節のない街に生まれ
風のない丘に育ち
夢のない家を出て
愛のない人にあう

人のためによかれと思い
西から東へ かけずりまわる
やっと みつけたやさしさは
いともたやすくしなびた

春をながめる余裕もなく
夏をのりきる力もなく
秋の枯葉に身をつつみ
冬に骨身をさらけだす

今日ですべてが終るさ
今日ですべてが変わる
今日ですべてがむくわれる
今日ですべてが始まるさ

季節のない街に生まれ
風のない丘に育ち
夢のない家を出て
愛のない人にあう

横目でとなりを のぞき
自分の道を たしかめる
また ひとつ ずるくなった
当分 てれ笑いが つづく

きたないところですが
ヒマがあったら寄ってみて下さい
ほんのついででいいんです
一度よってみて下さい

今日ですべてが終るさ
今日ですべてが変わる
今日ですべてがむくわれる
今日ですべてが始まるさ

———ここまで————————-

諦めと、憧憬と希望の狭間。

ひとつの宙

何は隠そう、このブログの名前、昔にやっていたバンドの曲名から、頂いている。
知ってる人も多いけど、知らない人もいるんじゃないかな。
過去ログ読んでもわからないからね。
今日は、そのバンドのライブに行ってきた(その後のライブ中に書いている)。
横浜FAD。
ここは僕の、いろんなもんが詰まっている場所だ。
セミでもライブしたし、外バンでも十数回したんじゃないかなぁ。
それもあってか、全部が、全部が、琴線に触れる。
ライブ全般にいえることなんだけれども。
以下列挙。
便所のフライヤーとか
店員の態度の悪さとか
アンプの置き位置とか
唐突に行われる次回のライブ告知の違和感とか
その無意味性とか
バンドの雰囲気とかアレンジとか
セッティングにとまどってる様とか
明らかにミスったドラマーが何食わぬ顔顔して叩いてたり
会社秩序のヒエラルキーとの対比とか
バンドに紐づいている女子の比率とか
その可愛さの比率とか
なんか目の前にいるカップルの関係値とか
あ、今ちょっと女の子から手を繋いだ。
それに想像を巡らせてみたり。
諸々の妬みそねみ感とかさ。
混濁したそれらと、決して上手いとはいえないバンドの音の粒子に埋め尽くされながら、いろんな感慨に思いを巡らすこの感じの全てが、時に違和感もあり、時に心地よくしみこんでくるのだよ。
明智君。
本来いるべき世界などと思うこともあるんだよ、明智君。
ライブを見ているみんなが思っている事がマンガの吹き出しみたいに宙に浮き出して、ひとつの中くらいの思念になって、まとまったもんを、一番後ろの席から音ともに眺めてみたい。
そんなニッチな欲望。
感情とはそうゆうもんだよ明智君。

まぼろし

アジアンダブファウンデーションを聴きながら朝の地下鉄構内から、会社へ向かうスーツの群れ、群れ。
なんだか全部が早送りに見えて、出来の悪いプロモーションビデオに見えて。

I say thank you for the music

音楽の力を思い知るこの頃だ。
実は最近、音楽をきけていなかった。
とゆうのは、大学時代から僕の使っているプレーヤーが壊れてしまった事による。
新しいCDを買おうにも外に持ち出せない状況が続いた。
意外に大丈夫だと思った。
高校時代、いや中学生時代から続いた外出時に数分でも時間があると音楽を聴くという習慣は以外と簡単にやめるとこができた。
耐える事ができないと思っていた無音の世界に入っていった。
音を必要とする時間はどんどん減っていった。
会社では音楽好きを自称するも、実際は音楽も聴かず、ただ日々をすごしていた。
音楽はすぐ側にあると思っていたものが、いつのまにか音楽は遠くにいってしまっていた。
電車に乗る時も、家に帰ってからも無音。
最後にスタジオにはいったのはいつだっか、忘れた。
そんな生活を繰り返していたある日、僕はふと今まであった自分のスキルが色々消えている事に気がついた。
今までなら乗り越えられる鬱の壁が、いつのまにか強大なものに感じられた。
必要としていない筈の音楽が、僕をよんでいた。
いや、僕の底にある何かが、音楽を欲していた。
ソニーのネットワークウォークマンを買う。買ったがOSがMEなのでインストールできない。
仕方ないのですぐパソコンを買う。
周辺機器を買う。
迷いは無かった。
音楽は、たゆたうもので、強制されるものではない。
自己に対する先入観的脅迫観念で聴く大学生や、自虐目的の自称「わかる人」のオタクとか、そうゆう事じゃないと思う。
音楽が気付いたら側にいる。
活力や勇気や、希望を与えてくれる。
ときには絶望や、悲観に寄り添うとゆう安らぎを与えてくれる。
そんなもんだ。
そんなもんだか、
しかしなんだ
音楽にこうして付き合う事が
以外にどうして難しい…

開闢する音楽達

浜崎あゆみをテレビで見て思う。
ほんと薄っぺらい音楽だ。
スカスカの乾パンみたい。
いったい何がいいんでしょうか?
僕の価値観ではちょっとわからない。

さて、良い音楽ってなんでしょう?

常日頃、僕が言っているように善悪が多数決によって決定されるのだとしたら、J-POPはまさにその代表選手みたいなもので、日本人の大多数が「よい」と認めている音楽である。

音楽の仮に良し悪しを選挙で決めたら、大統領はBzになる訳でw

民主主義絶対の法則で言ったら、ジャニーズやつんくにわれわれの信じている「良い音楽」なんて完全なマジョリティーであって、それこそ逆に聴くに値しない音楽ってコトになりませんかね?

いや僕にだって

芸術≒大衆性

じゃないことくらいは一般常識としてわかっている。

さて、ここで僕は再び、「芸術とは?」という問いにぶつかることになる。

芸術≒美
という構図はおそらくほぼ間違いないだろう。
では美とは?
僕らがそれを直感として信じているものを安易に信頼してよいのだろうか?
僕が大学に入りたてのころ、音楽に詳しい友達に「良い音楽ってなんだい?」って質問をぶつけて見たことがある。
したらそいつは「直感でわからない?」って答えた。
よっぽど、自分の価値観に自信があるんだろうなあと思いながら、こういう人とは議論はできないなあと半ば諦めたことを覚えている。

直感で価値観を決めたなら、それは主観的判断の絶対性を採用することになる。
自己の相対化なき認識は、それだけで凶器だ。
過去にこの日本に於いてもそれを温床に排他的な差別や、問答無用の虐殺などをあげるまでもなく僕らの身の回りでも星の数ほどの悲劇がおこっている。
そんな危険な直感とやらを信じて良いのか果たして疑問である。
疑問ではないだろうか?

「人にはそれぞれの自我の視座をもって景色を見て判断している。
その遠近法(パースペクティブ)の作用があるので決して本質的に人間同士が分かり合える事はない」
といったのはニーチェであるが、そういった懐疑主義をまず持つことが健全であるのではないだろうか?
どうだろうか?(分かり合うことはできないがその近似値に近づける事はできるんじゃないかと思うので、僕は会話を止めないが。)

では、僕の主観的意見をひとつ言わせて頂こう。
美とは本質的に「刹那性」を含んでいるように思う。
パンクスの衝動性にしろ、ジャズの即興にしろ、舞台にしろ、ラブソングにしろ、それは刹那性を孕んでいる。

永遠の愛を願うラブソングにだって、刹那性は潜んでいる。

永遠の愛なんてものはある筈がないにも関わらず、その瞬間性を尊ぶ無意識の意志が現れているからだ。

そして、刹那とは「永遠」への憧れの裏返しでもあることの証明でもある。

刹那の感覚を持った人間にこそ永久不変の美へのパトスが生まれ、それを美へと昇華したものがすなわち芸術であるように思う。

ルネサンス芸術の美を見るが良い。
そのイデアを追い求めようとする人間のあがく姿を見、その結実した美を見るであろう。

では振り返って冒頭の浜崎あゆみの例を考えてみよう。
皆さん知ってのとおり、彼女の音楽を含め、近年のJ-POPは「消費音楽」である。
消費を消費する為の音楽と言い換えても良いだろう。
レコード会社も爆発的に売れる曲しか考えていない。
瞬間的な共感を生んだ後、砂の城ように消えてゆく。そういった音楽の需要形態に合わせた生産をしているのである。
先ほど僕は

芸術(美)≒永遠性
であると話した。

が、このJ-POPの場合、真逆であるのである。
つまり、その目的が、その存在自体が美の本来内包する永遠性とはもっとも掛離れた、瞬間性のみでその目的が完結している下賎な商品であるからだ。
本来瞬間性は、永遠性に派生若しくはその萌芽を内包している筈なのに。
そういった存在の矛盾こそが、JPOPに美が存在しない証明であり、僕がかんじていた違和感の回答でもあるのだ。

相対主義の波にもまれて、迷いに迷っていた、大学に入りたての頃の自分にこのまにあわせの回答を贈りたいと思う。

以上が僕が大衆消費音楽を嫌いな理由である。
まだまだ、書き足りないことだらけだけど、とりあえず一要因を書いておきました。
気に障った方がいらっしゃれば、これはあくまで個人的主観でありますので気にしないでいただけたら…。
さらになにぶん30分程度で書いた文章ですので、乱れはご了承くださいませ。

みなさんが考える「いい音楽の条件」見たいなもんってなんですかね?
ひとことでいうならばw

虚空からのこえ

「ドアの外で思ったんだ 後十年たったら なんでもできそうなきがするって
でもやっぱりそんなのウソさ やぱりなにもできないよ
僕はいつまでもなにもできないだろう」

「空に寄りかかって二人の全てを頼って どこまでも飛んでゆく いつでも僕らを宜しく頼むよ In The Fright」

 
(フィッシュマンズ/In The Frightより抜粋)
だよおい。
どこまですごいんだよ。佐藤伸治。何回も聴いてるはずなのに胸に響く・・・。
何も、できないんだよね。きっと。ふん、僕らは、何もできないんだ。
10年たってもなんにも変わってないんだろうな。
これは諦めとか、怠惰な感覚ではなくさ。
世界って変革できるような類のもんじゃないし。
変革すら、なんの意味を持つかわからない。
多分佐藤伸治はそれを悟って、楽曲に転化したのだろう。
彼の死は、彼にとっても自殺だろうが、偶然だろうがどっちでもよかったんじゃないだろうかと思う。
だって彼は空気になろうとしていたんだから。

歌詞を調べようとして偶然見つけた2ちゃんのリンクしときます。
多分フィッシュマンズって本質的に人間の生命にアレルギーを及ぼす危険な何かを孕んでいるんですね。
2チャンねらもなんか焦ってる。
馬鹿にしきれてない。
ちょっとフィッシュマンズに入れ込んでる人なら、電車男より感動できます。

http://66.102.7.104/search?q=cache:P7GfWN4B2PwJ:music4.2ch.net/test/read.cgi/legend/<いや、そこで一番気になったのは 74 :伝説の名無しさん :2005/04/30(土) 16:14:26 「生命学者の森岡正博が↓の本でフィッシュマンズの歌詞が人を元気づける理由を書いてる  http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4888486271/qid=1114845096/sr=1-1/ref=sr_1_10_1/250-5619313-7914635
ってゆうくだり。
絶対買ってよもっと。

「上を向いて歩こう」

ときおり、頭からあるメロディーがはなれなくなって困る事がありません?
しつこいメロディーってありますよね。
僕の場合は、レディオヘットの「ナショナルアンセム」のリフがずっと頭の中をサブリミナルループをし、鬱みたいになってまったく寝れなくなったり、スパルタローカルズの「マイノリティ」が企業の面接の前にループし続けてなんだか愉快になって面接どころではなくなったり、RIP SLYMEの「ファンタスティック」のペスのライムだけが、百回くらいずっとループして、エントリーシートで無意識に韻を踏んでしまったりします。
そうなると日常生活に支障をきたしますよね…。
そんな時皆様は、何をしますか?
如何にして紛らわしますか?
僕はそう、日本の不滅の名曲「上を向いて歩こう」を頭のなかで何回も歌います。
がらにもなく。
はい。
笑わないでください。
するとあら不思議、いつのまにか頭の中のうざいメロディーは消え去り、後は澄んだ心が残るだけ。清浄な心になります。
あの曲は聖すら感じます。
あの曲だけは、どんな心境にもマッチするし、しつこく付きまとわれる気はしないんですよね。
幼少の頃から実はずっとその習慣があるのに、飽きることはありません。
どんなにたくさんの音楽をきいても、結局帰ってくるところは「上を向いて歩こう」だとしたら、あの曲は僕の一番好きな曲ということになるのかも知れません。

ああ

「ヨイトマケの唄」
「働く」という事の本質が全て唄われている。
そんな感じがした。