ライブ(ショー)における主体と客体の関係について

ライブ(やなんらかのショー:以降ライブ)を観に行く度に僕は、いつもクラブの誰もいない自分だけの空間に逃げ込みたくなる。

観客であるところの僕はいつも突っ立って、ステージで起こっていることはそっちのけでチカチカと光るライトのように散発的でまとまらない思考を持て余している。
煌びやかなステージ観ているようでまるで観ずに。

そうしてやがて暫くすると僕はやっぱりあのクラブの隅のスピーカー前の、ただ真っ暗で延々と馬鹿でかい音が鳴る、たった一人の空間に逃げ込みたくなるのだ。
 
この正体不明の居心地の悪さは、僕が学生の頃から感じていた違和感で、観る側の時も、演る側の時もずっと感じていたことである。

ライブを演る側と見る側は一見、
主客の関係あるようだが、それは違う。
 
演者は「次のフレーズなんだっけな」とか「今日は客の入りいいな」とか「音の返りがちいせえ」とか「うっひょ~サイコー」などと思い、
見る側は「あのベースうめえな、ひけるかな」とか「このあと何食いに行こうかな」とか「おっいい曲」とか「隣の子かわいいな」などとバラバラの事を思っている。
 
 
つまり演者にとって、自らが主役で、客は文字通り客体であるが、客にとっては演者が客体であって、客(自分)が主役であり主体なのだ。
 
結果、ステージの向こう側と此方側には大きな感情の量的・質的なギャップが生じることになる。
聞いて欲しい側と、聞かされている側。
それはどちらか高いほうから低いほうに水のようにそれは落ちて、淀む。
 

考えてみれば当たり前のこの事実があるのに、殆どのライブでは日常生活から切り離されたある時間拘束され、非日常的な空間であるということで、半ば強制的に客体である事を強いる事が許される。そんな客と演者での共通認識が出来上がる。拘束され、自由を奪われているストレスを忘れたふりをする。
 
結果、なぁなぁな雰囲気が完成する。
 

クラブでは状況が全く異なる。
演者が不在な故(DJは居る事には居るが存在そのものは)、目を瞑れば客は純粋に客のままで主体でいつつける事ができるのだ。
 

一方で思いも寄らない凄まじいライブや、自分が心酔しているアーティストのライブを見る時、人は限りなく無私に近くなる。
 
伝える側の伝えたい事が聞く側を圧倒し、客の思考を占拠する。
または、聞く側が演奏する側を初めから心酔していて余計なことを思考する必要もない。
極稀に、その二つの熱量が均衡になる。

こういう、ライブがきっと間違いなくいいライブであるが、あまり現実的にたくさんあるというものではない。

この不均衡がきっと、僕の感じていた居心地の悪さなのだろう。
と、少し整理。

<蛇足>
広告屋は対案を出さなくてはいけません。
もしライブハウス(に限っていうと)を上記主客の視点からハード(仕組み)的に変えることで、色々と集客や、文化面でも発展の可能性があると思います。
(要は参加型ってことなのかもしれないけど…。)

 
・踊れるようにする(主格の逆転)
・モニターを複数設置する(主格の曖昧化)
・踊るスペースをメインにし、演奏するスペースをサブにする(ダンスホール形式)
・酒を配る、振る舞う(自費で)
・飲み放題にする(その代わり値上げでも)
・食事を振る舞い朝までのイベントにする(プチフェス化)
・演者のプロフィールを配る(物語の構築)
・ブッキングライブのネットオープン化(ソーシャル化)
・ブッキングでは無く、ジャンル毎のセグメントを行う(ジャズが見たいとか、下北沢系がみたくて聴きながら酔いたい踊りたいとかそういう人の新規ニーズって全部クラブに取られてる)
・投票による審査を行い、クオリティを担保する(ライブハウスの客層改善)
・出逢いを提供する(出会い厨からの課金)
・ライブそのものの価格を下げる(通りがかりの音楽ファンニーズ)
・飛び入り参加スペースを作る(究極の主格逆転)

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