十全

もう既に、日本中があの列車事故のことを忘れようとしている。
このコラムに於いても僕はあえて事件に触れてこなかった訳であるが、今だからこそ、思うところを書いておきたいと思う。
僕はこの事件を通じてある二つの事柄を再認識するに至った。

Ⅰ.
一つ目は冒頭でも触れた「情報の劣化」という魔物の存在である。
この魔物は人々の忘却で成り立っている。
もしくは別の言い方をすれば「飽き」だ。
列車事故。そのショッキングな映像は当初僕たちの眼を釘付けにし、連日の話題の中心となった。

しかしどうだろう?

この一週間、僕はその話題を耳にする頻度が、そのことが議論される回数が、悉く減っていっていることを意識する。

もちろん、同じニュースを永久に報道しているわけにはいかないことは僕にだってわかる。
しかし100人が死んだ事故で、その報道としてはあまりにも忘却が早いのではないかと思うのだ。
今、テレビをつけても、くだらない日常を報道する番組と、下卑た笑いを垂れ流す番組がメインだ。ではニュースは?といえば、人々の不安と憎しみを喚起するような構造のニュースをしか報道していない。
僕は「センセーショナリズムが悪だ。」「大衆的報道が悪だ。」
と、マスコミ全体を糾弾するわけではない。

【人々の欲しい情報の帰結として、今の報道がある】

ということが言いたいのだ。
つまり、人々は自分の生活を脅かす恐怖以外の何ものにも対して興味をもっていないということである。
皆、無意識のうちに事故被害者の人間を、「運の悪い人間」として意識し、自らを「そんな事故には巻き込まれることが無い人間」と差別化して意識する。

その結果、人々の意識の中で事故は風化し、さらなるセンセーショナルな事故を求めて新たなる報道を求めるのだ。

106人という数字は一瞬にして死んだ数字にしては、リアリティーに欠けるということか。

たとえば、106人が一人一人、一日に一人ずつ殺人鬼に殺されていったなら、この事件の被害者はより強烈に国民の心に刻み込まれていっただろう。

皮肉なことに、その失われた命の重さは106人が同時に死んだことによって、悪意に基づく喪失より軽く意識されている結果となっているのである。
この根底には、先ほど申し上げた「運の悪い人間」としての差別化があると思う。
つまり、人々は自分の身の安全という曖昧な確証を、時間という費用を払って買っているに過ぎないのである。
ニュースを見て、解説者の尤もらしい説明を聞き、茶の間にいながらにしてまるでその場で見ているようなテレビ画像という千里眼を手にする。
そうする事によって、自分にとって未知で不明な意味のわからない「不安」に、何らかの解釈を与え、「既知の安心」に変化を起こし、自分の身の安全を確保した錯覚に陥る。 ニュースの存在、それ自体の機能はこれに尽きると思う。
だから、人々はそろそろこの事件に飽きてきたのである
原因も大体わかってきた(いい加減な解説者のコメントによって)し、そんなに気にすることではなくなったのである。
人々の「飽き」と「諦め」の範疇に入ったら最後、被害者関係者以外の悲劇的感情と鋳物は一年忌や最高裁の判決が下される時に、「ああそうか」と思う程度に風化していく類の情報に過ぎなくなっていくだろう。
それだけ、世間には「暇つぶし」の情報は溢れている。
まるで、空腹なイナゴの群れのように、悲劇から悲劇へと視聴者は動く。

それらが去った後は、被害者家族のマスコミに掻き乱された傷と、永久に消えることの無い怨嗟の念だけが、後塵を撒き散らす砂漠のような土地に残るのである。
Ⅱ.
少々長くなってしまったので、二つ目を手短に記そう。
この事故の原因、それは運転手のミスだろうか?
それともJR西日本側の労使関係のミスか?それとも…
と、いろいろに推測することができるが、僕ははその原因を資本主義に見る
今回の過密ダイヤにしても、国鉄の民営化にしても、それは僕ら国民が要求してなされたことである。
多分、こんな事故が起こる前までは、僕らは電車が五分遅れただけでもイライラし、「ちょっとスピード違反しても急いで来いよ」と思っていただろう。

あなたはどうか?

僕はそうだ。

自殺者がいて電車が30分遅れた時など、JRを恨むどころか、その自殺者を恨んだものだ。安全性の確保よりも、その自殺者の行為を呪ったものだ。
だとするなら、僕らが安全を確保せよ!なんていうのも実に勝手な話であり、それを断ることはJR西日本にとって、費用面でも、精神面でも難しかったのではないかと推測できるのである。

ダイヤを過密にして、切符代を安くして、かつ正確な運営をする。
それがどんなに困難で無理のあることか、僕たち消費者は意識しなさすぎた。
その消費者の無責任な欲求が、ダイヤの過密化と、懲罰の激化というツケを生み、それがあの若い愚かな運転手のじっとりと汗のかいた手の握るレバーを動かしたのである
結局、ジャーナリストにしろなんにしろ、自分たちが勝って気ままに叫んできた要求が履行されていなかった事実と、自分本位の一方的な信頼との齟齬に混乱をきたし、わめいているだけなのである。
ではなにを恨めばいいのか?
被害者家族は直接の加害者である運転手を恨めばいいだろう。
例えどんな歴史的背景があろうとも運転手には同情の余地は無い。
JR西日本は置石のせいにでもして現実逃避すればいいだろう。
逃げ回ることで気が晴れるならどうぞごかってにと言いたい。
では僕たちは何を恨めばよいのか?

それは「奢る」心を恨むしかないだろう。

私鉄との過激な競争と消費者の板ばさみにあって、JR西日本はこのような醜態を晒した。
消費者は勤勉で実直で正確な、通勤や通学の義務履行の為に正確なダイヤの運行を要求した。
それぞれ各人の義務履行の集積が資本主義のエネルギーの根本原理、競合である。
それが今回の事故のもっとも深い根にある考え方だとするならば、今回の106人もの人々を殺害したものは他でもない、「他人を蹴落としても金持ちになりたい」という理念であり、そうした欲求とそれに答えることができなかった歪みが屈折した結果、こうした傷ましい事故が起こったのである。

だとするならば、僕らはどうすればいいのだろうか?

僕は「共産主義になるべきだ!」なんていう、妄想はもちろん言わない。

戒める。

それだけでいいのだ。
安全と正確さは同時に買うことができない、という意識を今回の事故で皆で共有すべきあのだ。
そうすれば、電車が遅れようとダイヤが乱れようと憤然と要求をする無責任者はへるだろう。
無責任者が減れば、社会に於いてもダイヤの乱れで起こった遅刻などの責任はとらなくてもよい風潮が根付くだろう。
そうなれば、JRや他の私鉄も精神的金銭的な余裕ができ、安全対策への道筋も開かれるだろう(もちろん抑止力たる意見や機関は必要であるが)。
各個人が奢る心を戒める。
それが僕ら、他人の死などに本質的には対して興味を抱かない、野次馬的な傍観者たちのできる、事故被害者への精一杯の弔いとなるだろうと思う。
そうした積み重ねが、死のうと思っていない人を死ない為に、必要なのではないかと思う。
さて、報道は何故こうした未来につながる啓蒙的な活動をせずに、センセイショナルな映像を流すことののみに終始しているのか。
まったく、今回の事件で僕は人間の「業」をしか見ていないような、不愉快な気分になる。
この事件を通じて、評価すべき人間は二種類しかいない。
瞬間に生きた証を悲劇へと刻み込んだ被害者と、その生と憎しみを背負って生きる義務を負うこことなった被害者の、運命に翻弄された者の純粋な感情のみである。

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