浜崎あゆみをテレビで見て思う。
ほんと薄っぺらい音楽だ。
スカスカの乾パンみたい。
いったい何がいいんでしょうか?
僕の価値観ではちょっとわからない。
さて、良い音楽ってなんでしょう?
常日頃、僕が言っているように善悪が多数決によって決定されるのだとしたら、J-POPはまさにその代表選手みたいなもので、日本人の大多数が「よい」と認めている音楽である。
音楽の仮に良し悪しを選挙で決めたら、大統領はBzになる訳でw
民主主義絶対の法則で言ったら、ジャニーズやつんくにわれわれの信じている「良い音楽」なんて完全なマジョリティーであって、それこそ逆に聴くに値しない音楽ってコトになりませんかね?
いや僕にだって
芸術≒大衆性
じゃないことくらいは一般常識としてわかっている。
さて、ここで僕は再び、「芸術とは?」という問いにぶつかることになる。
芸術≒美
という構図はおそらくほぼ間違いないだろう。
では美とは?
僕らがそれを直感として信じているものを安易に信頼してよいのだろうか?
僕が大学に入りたてのころ、音楽に詳しい友達に「良い音楽ってなんだい?」って質問をぶつけて見たことがある。
したらそいつは「直感でわからない?」って答えた。
よっぽど、自分の価値観に自信があるんだろうなあと思いながら、こういう人とは議論はできないなあと半ば諦めたことを覚えている。
直感で価値観を決めたなら、それは主観的判断の絶対性を採用することになる。
自己の相対化なき認識は、それだけで凶器だ。
過去にこの日本に於いてもそれを温床に排他的な差別や、問答無用の虐殺などをあげるまでもなく僕らの身の回りでも星の数ほどの悲劇がおこっている。
そんな危険な直感とやらを信じて良いのか果たして疑問である。
疑問ではないだろうか?
「人にはそれぞれの自我の視座をもって景色を見て判断している。
その遠近法(パースペクティブ)の作用があるので決して本質的に人間同士が分かり合える事はない」
といったのはニーチェであるが、そういった懐疑主義をまず持つことが健全であるのではないだろうか?
どうだろうか?(分かり合うことはできないがその近似値に近づける事はできるんじゃないかと思うので、僕は会話を止めないが。)
では、僕の主観的意見をひとつ言わせて頂こう。
美とは本質的に「刹那性」を含んでいるように思う。
パンクスの衝動性にしろ、ジャズの即興にしろ、舞台にしろ、ラブソングにしろ、それは刹那性を孕んでいる。
永遠の愛を願うラブソングにだって、刹那性は潜んでいる。
永遠の愛なんてものはある筈がないにも関わらず、その瞬間性を尊ぶ無意識の意志が現れているからだ。
そして、刹那とは「永遠」への憧れの裏返しでもあることの証明でもある。
刹那の感覚を持った人間にこそ永久不変の美へのパトスが生まれ、それを美へと昇華したものがすなわち芸術であるように思う。
ルネサンス芸術の美を見るが良い。
そのイデアを追い求めようとする人間のあがく姿を見、その結実した美を見るであろう。
では振り返って冒頭の浜崎あゆみの例を考えてみよう。
皆さん知ってのとおり、彼女の音楽を含め、近年のJ-POPは「消費音楽」である。
消費を消費する為の音楽と言い換えても良いだろう。
レコード会社も爆発的に売れる曲しか考えていない。
瞬間的な共感を生んだ後、砂の城ように消えてゆく。そういった音楽の需要形態に合わせた生産をしているのである。
先ほど僕は
芸術(美)≒永遠性
であると話した。
が、このJ-POPの場合、真逆であるのである。
つまり、その目的が、その存在自体が美の本来内包する永遠性とはもっとも掛離れた、瞬間性のみでその目的が完結している下賎な商品であるからだ。
本来瞬間性は、永遠性に派生若しくはその萌芽を内包している筈なのに。
そういった存在の矛盾こそが、JPOPに美が存在しない証明であり、僕がかんじていた違和感の回答でもあるのだ。
相対主義の波にもまれて、迷いに迷っていた、大学に入りたての頃の自分にこのまにあわせの回答を贈りたいと思う。
以上が僕が大衆消費音楽を嫌いな理由である。
まだまだ、書き足りないことだらけだけど、とりあえず一要因を書いておきました。
気に障った方がいらっしゃれば、これはあくまで個人的主観でありますので気にしないでいただけたら…。
さらになにぶん30分程度で書いた文章ですので、乱れはご了承くださいませ。
みなさんが考える「いい音楽の条件」見たいなもんってなんですかね?
ひとことでいうならばw