寂寞

この世界は「無」だ。
唐突であるが、今日いきなり気付いた。
いや、実感した。

例えば、寝てるとき。
僕が寝ているときに、隣で人が殺されたとする。そこまで行かなくても、僕の知らないところで何か悪事が行われたとする。
僕が寝ている時に起こった殺人。
それが血痕だとか、匂いだとか、そういった事が起こった証拠を僕が気付くことがないように隠滅したのであれば、その事実というものは無いに等しいだろう。

つまり僕の自意識が存在しない所には、世界は存在しないのだ。
世界は、僕の自我の下で形成されている。
そういったことに矛盾を感じたとして、僕の自我の拡張を図ったとしても、そりゃあ、たかが知れている。
ましてや、こんな薄っぺらい皮一枚に肉と骨と血を包容している脆い僕の肉体などというものは明日、あさって、一年後に存在している確証などはっきりいって無いに等しい。
脆弱な肉体と、それに包まれた自我は、自我自身によってその価値を付随しようともがき、他者との差別化を図ろうとし、無意識的に「我」の価値を信じて疑わなくなる。
「彼」と「己」は深遠の淵に隔たれているような錯覚を抱くことがあるが、僕はそれはあんまし関係のないことなのではないかと思う。
人生はあまりにも短く、あまりにも軽薄だ。
そんな、たかだか80年の人生。
自分の自我が世界を作り上げるのだとしたら、世界というものも80余年の寿命をしかもっていないということにならないか?つまり、今の世界が存在しているという確証は、自分という存在の自己意識による証明によってのみしか、得る事が出来ないのである。
自分が死んだ後の世界。
それが存在するかも証明できない。
自分が存在する前の世界。
それも「我」が作り上げた壮大な妄想に過ぎないのかもしれない。
「我思う故に、我あり。」
その言葉の範疇以上のことを我々は何も証明できないのだ。何も。
自分が、自意識が脆弱だとするならば、その定立としてこの世界も脆弱である。
「そこ」と「かしこ」の間にはなにも差などないのだ。
つまり、自分の存在以上の世界が存在しないのならば、「最初から世界は存在していないのではないか」ということにならないか?
全部虚妄のお遊びで、たちの悪い冗談なんじゃないだろうか。
世界<0>に向けて我<有>をいくらぶっつけ続けても、なにも、何も意味が無い。
つまり「最初から、世界は存在していない」のである。
【いや、こんなまどろっこしいことをいわなくとも、「永遠なる有」が存在ない時点で、全ては無であるということが出来るか。
もう、よくわからん、梵にはいり、アートマンと一体化したいものだ。
なんか、柄にも無く「全体」を信じたくなった。】
「あはは、じゃあ、死ねば?」今にもそういう声が聞こえてきそうである。
確かに世界そんなにも嫌だ虚無だと、言い続け、アホなくせに悪い思想ばかりを書きなぐり、変な影響ばかりを周りの人間に振りまいてばかりいる僕は健全な人生を送ろうと考えていらっしゃる方には害虫みたいなもんで、今すぐに死んでしまったほうがいいかもしれん。
しかし、わかってますよ、僕が弱虫で腰抜けだって事は。誰よりも。
そんな度胸もありゃしないし、痛みにも、悲しみにも、トラウマみたいなんに近いもんが邪魔をして、死ぬことすら出来やしない。
けどね。
自殺をするということは世界を殺すということです。
自我を抹殺するということは、世界を抹殺するということで、僕はそこまでまだ世界を憎んじゃいない。
むしろ、愛すべきものがたくさんあって、そんなもの達はまだ、世界から消してしまいたくない。
自分の自我が健全で、そういったものに美しさや、暖かさを感じるとが出来るうちは、観察者でいようと思う。
しかし、老いて行く上で世界を穿った見方でしかみれなくなり、世界を曇ったレンズを通じてかみれなくなってしまったときには、死んでもいいんじゃないかと思っている。
世界を醜悪としてしか、構築できなくなってしまった「我」はもう、いらんでしょう?
結局、息も切れ切れに、地べたを這いずり回って生きていくしかないんだろうと思う。
その中で、本当に価値のあるもの、自分の信じる「美しいもの」。そういった物を見失いたくない。
この世の中が、自我で成り立つ儚い夢のようなものであるならば、せめて僕は優秀な観察者でありたいと思った
たとえ、世界が太虚の中にあろうとも。

ああ

「ヨイトマケの唄」
「働く」という事の本質が全て唄われている。
そんな感じがした。

人は慾(カーマ)よりなる。慾にしたがって意向が起こり、意向によって業(カルマ)が生じ、業によって輪廻(サムサーラ)が決まる。

慾に溺れない様にしなければ。

風に吹かれて

当たり前に過ぎ行く毎日に恐れるものなど何もなかった。
本当はこのままで、そう、本当はこのままで何もかも素晴らしいのに。
明日にはそれぞれの道を。
追いかけてゆくだろう。
風に吹かれてゆこう。

エレカシの「風に吹かれて」の一説。
最近、大好きなバンドが解散した。
また、サークルの先輩が、大学を卒業して行った。

僕の大学生活はこの歌のようにまさに当たり前に過ぎていった。
その濃度と、その輝きと、その芳醇な薫りに気づきもしないで。
いや、気づいた気にはなっていた。
「大切な時間だろう。」
しかし、それは知ったかぶりに過ぎず、実感を伴うものではなかった。
こうして、リアルな時の流れ、その無常さに触れると、反定立として、その若さという、賢覧豪華な建築物の美麗と不可逆的なその破壊をはじめて意識するのである。
気ままに楽器を鳴らし、読書をし、悩み、部室で蒙昧と何時間もすごし、大いに議論をし、飯をかっくらい、安酒をあおり、空を眺め、落ち葉を踏み、雪を仰ぎ、太陽に目を細め、気心の知れた仲間と一寸煙草を吸う。
そんな、当たり前で、ごくありふれた行為のすべてが、輝いて見える。
これは断じて就職活動を控えた、青年が語る、困難からの逃避による泣き言などではない!
若さと、それを無駄に怠惰に、浪費する美しさ。
肉体の迸るエネルギーをもてあまし、それでいて自らの負った心の傷によって、体育会的な精神に馴染む事ができず、アンニュイな時間と空間をただ煙草の紫煙と、音の波動に委ねた、水母のような三年間。
いったい、そこに美がないとしたら、この世の何処に美があるというのか?!
書いていて、涙すらでてこよう。
悔しくてたまらない。
いくら泣き叫んで地団太を踏んでも美しい時は戻ってこない。
「時」という、巨大な車輪に、僕たちはいずれ飲み込まれていく。
それは恐ろしく巨大な装置だ。
形あるもの、なきもの、万物を飲み込んで、生々流転を繰り替えしてゆく。

「老い」は間違いなく僕らを襲う。
「老い」は間違いなく僕らの存在を今以上に穢れた、卑しいものとするだろう。
「老い」は間違いなく僕らという、記憶を無へと帰していくだろう。
その時に、その狭間に、綿々と続く生の営みのそのただ中に、僕らの青春の、若さの大伽藍が、黄金の輝きを放つのである。
僕らはいずれ、バラバラになって宇宙に帰ってゆく。
精神も、バラバラになって形をとどめないであろう。
何か、アカッシックレコードや阿頼耶識のような、記憶、記録の保持者、世界の監視者。
そういったものがいるのなら、僕たちの存在を見ていて欲しい。
若さというものを、浪費に浪費をしている、哀れで、ちっぽけな僕たちのことを。
世界の記憶にとどめておいて欲しい。
僕たちが見た全ての美しい思い出を。
最後に、エレカシのこの歌は、

さよならさ、今日の日よ
昨日までのやさしさよ
手を振って旅発とうぜ
いつもの風に吹かれて

と、結んでいる。
いろいろ悲観的なことを書いてしまったが、つまり、別れが悲しいのだ。
先輩にはやめて欲しくないし、ミュージアムには終わって欲しくないのだ。
こんな駄文を読んでくださる殊勝な方がいたとしたら、こんなものはすぐに忘れて、その栄光ある道を歩んでいただきたい。
この歌詞をお借りして、僕の旅発つ先輩方、仲間たちに向けての挨拶と替えさせて頂く。
ご健勝と、末永いご健康を心から祈っている。

幽玄

ロックとは概念であり、概念とはたゆたうものだ。
有為転変、人間が作り出した全ての価値観は変遷を重ねてきた。美や醜、正邪の概念は、常に文明に規定され、又逆に文明を規定した。
ロック、その解釈は多岐に渡る。
例えば、ジョンレノンのロックは平和への飽くなき叫びだ。パブリックエネミーのロックは自由への闘争であり、レディオヘットのロックとは搾取構造への宣戦布告であった。
星の数程存在する音楽家それぞれに異なるロック観が存在し、そしてそれらの潮流の中には「真なる悩み」という源泉が存在する。
つまり懊悩と憐憫という土壌があって始めてロックという花が開くのである。
さて、「この世の不幸は 全ての不安 この世の不幸は 感情操作と嘘笑いで みんなが夢中になって暮らしていれば みんなが夢中になって暮らしていれば 別に何でもいいのさ別に何でもいいのさ」佐藤伸治はそう謳う。
ここ、日本には闘争もリアルな死もない。愛と友情しか謳えない精神のホルマリン漬け的な音楽には、退屈の萌芽が芽生える。
フィッシュマンズはその退屈を鳴らしている。日本という戦争の無い国家、その豊かな国から生まれたロックは、心地の良いニヒリズムを孕む。生物としての闘争本能を持ちながら、平和を憎めない。そんな良心の疚しさを、日本人特有の感性「空」の精神でまろやかに修めるのである。
「動」のロックがあるならば、フィッシュマンズのロックは、「静」である。
これが、最早この世にはいない佐藤伸治の歌声がこんなにも僕ら日本人の心に響く所以なのであろう。
「意味と本質はどこかの背後にあるのではなく、その中に一切の物の中にあるんだ」そう思わせてくれる日本人的な何かが、フィッシュマンズの鳴らすロックには存在する。

拳闘士

我が家には、
15年と4ヶ月歳の団子がある。
といっても食するものではない。戦う団子だ。

そいつは赤土を主な原材料としている。適度な水分を与え、輝き磨き上げた「つや」が黒々と光っている。
「誰よりも硬く」「誰よりも美しく」

そう少年は考え、近所各地の遊び場にある粒子の細かい砂をふりかけ、何日も何時間もかけて磨く。惚れ惚れとその黒真珠のような美しさと、その潜在的にもつ「強さ」に見とれる。
そして自らの及ぶ限りの英知と技巧をもって作り上げたそれを、友人らと砂塵舞う公園に持ち合い「決闘」を行うのである。
ある一定の高度から落とされた団子は、重力によって加速度を増し、相手側の団子へ向かって落下していく。

そして一瞬の後、勝敗は決するのである。

勝者は歓喜の声を上げ、敗者は本気の涙を流す。

つまるところ、僕は「遊び」とはこうあらねばならぬと思っている。常に男はこのような真剣勝負の感覚を忘れてはいけないのではないか。

純粋でひたむきな情熱をもって、磨き上げ、鍛え上げる事に意義がある。
そうして作り上げ、愛しさえした団子を恐れずに勝負の場にさらすことに意義がある。
また、真二つに砕けた団子を見て、悔し涙を流すとも、更なる高みを目指し、新たな相棒の制作に取り掛かる姿勢に意義がある。
勝利ようとも慢心せず、次なる刺客との勝負に備えたゆまぬ努力で鍛錬をすることに意義がある。

団子は言わば、そうした「生き方」の象徴であるのだ。
団子は自らの身をもって「遊び」の枠を超え、少年に「強さ」を教えてくれたのかもしれない。

さて、ちなみに我が家の誇る戦士は幾多の団子との壮絶な戦闘を終え、今は我が家のガスメーターの中で黒光を放ちながら静かに蟄居している。
先日、十年経た今も一人孤高に誇らしげな彼の姿を見て僕は、姿勢を正し、凛と生きようと思った。

ふざけきれなかった、僕らの魂は・・・

「たくさんのことを生半可に知っているよりは何にも知らないほうがよい。」
とは、リンク先にも紹介したニーチェの箴言であるが、私も就職活動という人生の局面をむかえ、最近常々思う。
ニーチェを少し私なりにアレンジするのであれば、
 「無知である無能は可哀想である。しかし世の中で最も哀れむべきは、懐疑心を持った無能である」 と。  つまり疑うことのみを覚え、自分の存在の卑小さを知り、自分を取り巻く世界を何一つ変える事が出来ない事に気付いてしまった無能が、最も、この世に必要とされていない存在なのではないかと…

世の中で最も簡単な行為とは「懐疑」であり、最も困難な行為は「信頼」である。
懐疑への間口は、万人に大きく開かれている。
「なぜ私は存在せねばならないのか」「何故、大衆は盲目的なのであろうか」というように。
懐疑をすることで人は他人との差別化を図り、自らがミザリーの主人公であるかのような、捻じれた優越感に浸るのである。
そして一旦相対主義の魔物に取り付かれると、人はその甘美な魅力から逃れることは出来ない。
学生のうちはまだ良い。
内に篭り、最低な自分に酔いしれ、アンニュイな酒を飲み、モラトリアムの湯浴みをしていれば、決して困ることはない(こういう類の人間は概して完全なる孤独というものに拒否反応を示すものだ。細々とした友人関係を必ずどこかで築いている。そしてその少なさはまた、彼の優越心を強固なものにしていくことに役立っていくことに違いない)。

かくして彼は、ようやく就職活動という局面に於いて自らの存亡の危機を知るのである。
モラトリアムはいつの間にか半ば強制的に終了を告げ、懐疑で出来た暖かい家から追い出されてしまう。
社会は懐疑することを許さない。
組織を破壊することを許さない。
慣習を打破することを許さない。

従順な人間のみを社会は許容し、彼らをスターダムにのし上げて行くのである。
そんな構図に組み込まれ、人間を辞めるか、社会に反発することで人間を辞めるか…
私達にはその二つの選択肢しかのこされていないのである。
よって、冒頭の箴言および、私が考える拙言に行き着くのである。
懐疑をすることを覚えた、少年・少女は、どう生きていけばよいのか?

誰か、その答えがあるのならば教えて欲しいものだ。

すいまそん

漫画喫茶から書いています
今、家のパソコンが壊れていて更新がままならなくなっていてすいません
隣の部屋に狂人がいます
ずっとわらってます

破戒

今日戸塚の肉のサイトウでサンタの格好をしたオヤジが肉を売っていました。
トナカイの肉かな?
キリストさんも今の日本とか見たらビックリするんだろうなあ。
おばあちゃんが電車で一生懸命立っていました。
その前の席では、疲れ果てた顔をしたサラリーマンが座っていました。
かんべんしてくれって顔をして。
あと病院にも友人のお見舞いで行きました。
あそこにはクリスマスなんてもんは存在していないかのごとくでした。
不健康と、不幸がいっぱいでした。
クリスマスだクリスマスだと騒ぎ立てている僕のような人種に、無言で冷水を浴びせ掛ける空間がそこにはありました。
結局は、社会にメディアにうかされていただけなんだあって。
ああ、果たしてこれはひがみかなあ、負け犬の遠吠えかなあ。

僕は、あいかわらずまたフィッシュマンズを聴きながら家に帰りました。

いきもの

表面をすべるぐちゃぐちゃ
世界に、穢れ(けがれ)が満ちては、消える
猿どもが、したり顔ですやすや
罪なんて無いのかな
穢れなんて無いのかな
まあいいや
全員、勘違いしていればいいし
ああ眠いわ
眠りを