思い通りにならない世界で。

『人生は、ままならないものである。』

それが、この旅の前後で学んだ事。

起こりうるあらゆる悪い事は起こりうるし、
楽観視は痛い目見るし、
信じても裏切られるし、
希望的観測は得てして叶わない。

期待は期待でしかない。
思いや希望なんて現実には何も影響を及ぼさない。

だから頭で分かる範囲で、理性を武器に計画を立てる。
そして身体が出来る事を行動として移した時に、始めて現実世界に少しだけ影響を及ぼす。

だがそれでも、それでも悪い事や不慮の事故は起こる。

根拠なく「進路が逸れるだろう」と希望していた台風は波照間島を直撃するし、
根拠なく治るんじゎないかと思って水没させたiPhoneは、治らなくて買い替えになるし、
そのiPhoneを買い替えた当日に、旅の残金を全部いれてた財布を置き引きあうし、
やっぱり財布は落とし物として届けられないし、
仕事は大人しく着実ににやろうと思ったら同僚から謎の脅迫を受けるし、
膝は治りにくい爆弾を抱えていることが判明する(最後の方旅に関係ないけど)。

人生にはイレギュラーな事や厄災が降り注ぎ、得てして思ったとおりにはならない。

明日家が燃えるかもしれない。
癌になるかもしれない。
目が見えなくなるかもしれない。
大切な人が刺されるかもしれない。
線路に落ちて死ぬかもしれない。

可能性が低いだけで、それが我が身に起こりうる可能性を誰もが持っている。
ロシアンルーレットの拳銃の引き金を毎日引いて、たまたま当たらなかっただけだ。

世界はままならない。
世界は、ゲームではない。
自分の期待通りになるほど甘くない。
予定調和は無い。
存在はハイデガー的世界内存在で<在る>事から絶対に抜ける事は出来ない。

肝に命じろ。
注意しろ。行動しろ。
世界は思い通りにならない。

ここで、上記論旨を反転。

逆に、ままならない世界は意図しない、想像を遥かに越えた素晴らしい一瞬を与えてくれる事もある。

それはまるで、
「その印象は非常に強くて、わたしがかつて生きていた瞬間が、現時点であるように思われた(失われた時を求めて/ゲーテ)」
のような。

卑近な考えはおろか、自分の抱えている悩み全てを吹き飛ばす圧倒的な現実。
接近し、体験する<今>。

誰もいないビーチ。

一人座す。
透き通る蒼。

なんという豊饒。
なんという横溢。

喉を通る、ぬるいビール。

自分とビールと音楽と自然のミニマル。
何時間も身を任す。

即席のドラムセットで奏でるリズム。

「異邦人」でムルソー圧倒的された<あの>太陽。
太陽!

豊かな死のような夕暮れ。

旅とは、ままならなくて予定調和とはいかない世界の無情/不条理の中に自分を投企し、その中で失望しもがきながら、<二度と戻らない>その場所で、<二度と繰り返さない>の<今>や<現在>を見つけるための装置なのかもしれない。

トルストイは言う。

「現在に対して注意深くあれ。我々は現在の中にのみ永遠を認識する」(文読む月日)

辻邦生は言う。

「<今>にこうして手で触ること-それが生きることに他ならない」(夏の光満ちて)

と。

僕はまた旅に出るだろう。
また傷つき、失望し、何かを得るだろう。

あれ?
それが生きるということそのものにほかならないような、そんな気がしてきた。のだ。

僕が旅に出る理由

「本当にいきたい所に行き、本当にしたいことをする。」
それを君(わたし)はできているのか?

最も根源的な問い。
この問いが今回の旅の発端だった。

—————————-

振り返ると、この<わたし>はつくづくお人好しであった。
今までの私は、下記のようなルール(ごく一例)をいつの間にか作って、いつの間にか自分をがんじがらめにしていた。

・将来出会うかもしれない大事な人のためにお金をためなくてはならない。
・そのためには毎月●万円貯めなくちゃならない。
・だから生活を切り詰めないといけない。
・だから今は極力家にいるのが効率的である。
・よって、家でできる趣味(ゲーム/アニメ/料理等)をして時間を潰せ。

これはもう、一行目から破綻している。
だからそれ以降の論理は全て破綻している。

<将来出会うかもしれない大事な人>は今居ない。無を無担保に最優先事項としている。
仮に居たとしても、何故自分の生より優先して金をためなくてはならないのかの論理的理由が無い。

上記のようなルールはほんの一例だ。

・人付き合いが苦手だから
・ひとりで行動するのは好きでないから
・そういう人だから
・緊張しいだから

等といろいろと理由をつけて、何かすることに怯え、何もしないでせっせと(先の見えない(笑))将来のために根拠のない投資を続け、
未来を夢見て<今>を蔑ろにしてきた。

「本当にいきたい所に行き、本当にしたいことをする。」
などというのは、

<いつか出来る>ことで<今すべきこと>でないと、当たり前に思っていた。

なんで今まで気づかなかったのだろうか。
世の中の巨大な<当たり前>に巻き込まれて潰されるが、自らが潰されることにすら気づかずに緩やかに死ぬ虫のように私の個性は盲目で貧弱だ。

いや!寧ろその<当たり前>に積極的に加担することで、無根拠に自らを与える努力そのものが生きる理由にすらなっていた!

—————————-

母の死と、とある裏切りによって、その盲目性から目覚めた。

僕はこの旅において、今までの失敗を噛み締めながら下記のプロセスを辿ることになる。

上記の問題意識からスタートし、
自らの本当の心と向き合い、
本当に問題を解決する方法を探し、列挙。
場所と行為を選択した。

スケジュールを組立て、
資金計画と食料計画を立てる。
外部と折衝し、計画を裏付ける。

人を巻き込み、
自分を新たな所に置く。

そしてこのプロセスを経て、これから私は、

そこで起こる問題と偶然を楽しむだろう。
注意深く時を味わうだろう。

生を生として生きるだろう。

そこでは<彼の地にたどり着いたその未来>には、
晴れていようが、雨が降ろうが、人と交わろうが一人だろうが何があろうが、

「本当にいきたい所に行き、本当にしたいことをする。」

という事は<達成した私>が居るだろう。
課題を<少しだけ克服した私>が居るだろう。

その自分に思いを馳せ、そしてこの旅の意味を再び噛み締めながら、足を一歩踏み出す。
さあ、何が俺を待つ。

今、わたし。

何故、今を嘆く。

何故我々は過去を崇拝し、青春を美化するのみで、<今、ここ>を卑下し軽視するのか。

例えば音楽に明け暮れた大学の頃の四年と、今の四年。
青春と今。
比較すると、誰しもが今の生活の色の無さを見出すだろう。

だが、その時間の<客観的な価値>は、等しい筈だ。
数年前も今も<時>は等しい。
ならば<時>は客観的に時は同じ価値を持つはずだ。

いや更にいうなれば、各個人の中に記憶として凍り付いて動かない<過去>と等価に、いや本来ならそれ以上に、
<今>はその一瞬一瞬のその豊かな可能性的多様性において、光り輝き、生に溢れ、素晴らしい。

上記のような客観的状況があるにもかかわらず、過去と今、その問題で悩むとすれば、
その時間軸で変わったのは、時の受容体側。
つまりわたしだ。
主体だ。

世界を観測するのは、私ひとりしかいない。
そして、その観測の仕方は私自身に任されている。
その事実を悲観せず受け止め、逆手にとって自ら選択し、行動し、自らを新しい世界に置く。

僕らは、今からでも何度でも何回でも何百回でも、自ら望めば、選択すれば、素晴らしい瞬間に出会える筈だ。

ではいつ、その果実を摘み取るのか。

過去ではない、未来でもない。
それは今だ。

「過去の自分」に耽溺したり、「未来の自分」を最優先するために、今の自分と時間を蔑ろにするほど馬鹿な事はない。

【かって幸せだった自分】
  や
【いつか幸せになる自分】

を夢見るのは終わりにしよう。

今、人生の芳醇を積極的に味わおう。

今、
わたしが、大事な人に会いに行こう。
今、
わたしが、美しい世界を見に行こう。

正しい希望の失い方

誤った絶望=
世界に形而上的な意味がない事を知り絶望するが、
その虚無の巨大さにやがて盲目になり、
自らの本質的な価値を外部である<他者(他人だけでなくその価値観も含む)>に依存し投げ渡す事に、
誤った世界の意味を求め、自らの生を蔑ろにし消費し、無意味を更に無意味化する、
半自殺的絶望。

正しい絶望=
世界に形而上的な意味は無い。
よって<世界の内にある他者>も、わたしにとっても等しくその意味はない。
そう正しく理解した上で、それでもなお自らその無を引き受け、
ただ一人で立ち、
それでもなお他者と向かい合い、生きる絶望。

この2つの絶望は入り口は同じだが、
その結果は、一方の彼岸からあの世を、この世を見るがごとく遠く、違う。

選択と時間

価値の在る仕事とは、

⒈ 正しい目的意識を持ち、
⒉ 仮説の精度を上げ、
⒊ 解の質を高め、
⒋ 自らの作業効率を見直し、
⒌ 具体的に工程を組んで改善し、再生産する事

である。

サラリーマンになり、覚える段階を越え、仕事に対して余裕ができて自我が芽生えると
⒈を覚えさえすれば、⒊までは大なり小なり誰しもが目指すになる。

だが、さらにある程度時間が経つと、
3.と4.の段階の中間で仕事が「こなせる」事を覚える。

下手に利口になると⒌を自らに課す事について、見てみないふりをするようになる。
楽だから。

その仕事の「楽」をどう捉えるかがきっと人生の満足度にとって大きな差を生むのだろう。

1. 楽した時間を目的意識を持って別のことに使う
2. 楽した時間をTVや他人の付き合いやどうでもいいことに使う

自らの価値のある仕事にも向かず、プライベートも目的意識のない2の領域は不毛だ。
停滞だ。人生の浪費だ。

そこに自分の人生を突っ込まないよう、
仕事に於いてもプライベートに於いても常に目的意識を持つことが、
何者かの奴隷状態から人生を勝ち取り、開放する最初の一歩なのだ。

影響力

全ての人間に、影響力は無い。

富める者も、
幸せな者も、
世に認められた者も、
愛される者も、

そうでない者も等しく無い。

そもそも、モノに属する動物は世界に意味を与えない。
影響とは「自我を持った人間」が「他者」に対してのみ与えるものである。

世界そのものはそれ単体で意味は無い。

世界に意味を観測するのが人間なら、価値をつけるのも人間。
付けられた価値を忘れ去るのも、人間。

とするなら世界の中に放り出されて在る、我々の個人の存在は根拠のないものだ。

世界に触れている、変えられるというのは錯覚だ。
そうでもしないと生きていけないから、周りの「人間」の反応を、自己評価の価値に変形して錯覚しているだけだ。

誰かにそれがあると思い、自分の人生を思い煩うのは、誤解であり奴隷根性であり、人生の唾棄だ。

本質的な影響力は誰にも、無い。

等しく全ての人に無い。

平等に。

「原子力政策及び、反原発デモに対しての自らの立場」と「国会前デモに行ってみて思ったこと」

A.原発反対デモ参加前の「原子力政策及び、反原発デモに対しての自らの立場」

■デモについて~国民の権利と義務
デモは憲法21条で認められている国民に与えられている(自由権に基づく)権利であるからして、
その行為そのものや内容に関しての是非は問題じゃない。

■デモの自由と意義
人間固有の自然権の一部として、ジョン・ロックのいう抵抗権は
権力に対する民衆の意思疎通として意義は在る。

■デモの目的
デモという行為や内容そのものに関して問題が無いとすると、では何故デモをするのか?という動機と目的が重要になる。
(デモは暴力的デモと非暴力的なデモに分けられるが、ここでは暴力的デモは論外とする)
非暴力デモの目的はその理念に基づいた行動によって世論を動かすことだ。
世論を動かし、政治体制を変え、法を変え、法の支配によって行政を変え、世の中を変えることだ。

■急進と段階
現在の反原発派はひとまとまりの思想を持たない。
大きく分けて3つ

1.急進的反原発派
2.段階的反原発派
3.なんとなくやめたほうがいいと思っている派(大多数)

これには大きな隔たりがある。
前者にもピンキリがあるが、彼らが言いたいことは基本的には「原発やめろ、さもなくば悪」という事。
これでは客観的で現実的な議論はできない。
2.は(私は2.の立場をとる)、まずどうやってやめるかの手続きとステップ論をメリット・デメリットに照らし合わせて考える。

■かつてのデモ、派閥と内ゲバ
かって日本で巻き起こった日本の自治を取り戻そうと起こった学生運動は、過激派と穏健派のセクトに別れて内ゲバが起きて崩壊した。
今の原発を振り返って見るに、1.からみたら2.は生ぬるいと思うし、2.からみたら非論理的だと思うし、3.からみたら「あいつらちょっと…」っていう感じに映っている。
かっての学生運動と同じような対立状況にあるのではないだろうか。

■現在のデモの反目的性
その二者対立の<弱い内ゲバ>の構造が、外から内からみた時にデモの最終目的であるところの
「世論を動かし、政治体制を変え、法を変え、法の支配によって行政を変え、世の中を変える」
という目的を阻害している。
特に多数であり政治的力を最も持っている3.の人たちに対して。

では歴史を知り、過去に起きたことと同じ轍を踏まないために、自分が現実的にどういう立場をとりうるのか。

■デモと手段の溝
デモは世論を動かすことが目的だ。
では世論を動かしてどうしたいのか?

原発を止めたい。

止めるにはどうしたらいいのか?

普通は、電気事業法を変えるとなる。

日本は法治国家だからだ。
そのためには?

もちろん、政治を変えないといけない。

ただ、今のデモにはその目的に対する指向性がない。

手段が目的化している。
デモをやることが目的化していて、手段を間違えている。

指向性や計画性がないのでせっかく起こした世論の受け皿がないのだ。

■本質的な問題と経済と法の支配
この国の本質的な問題は、

・官僚による支配構造
・高齢化による経済の衰退
・世代間格差

だ。
電力政策の問題も上記に集約される。
(というか、反原発もその一部でしか無い。)

原発がなくても火力によって電力はまかなえるかもしれないが、
一方で燃料費は10兆円増加した。これは貿易黒字が一気に赤字になる金額だ。

毎年これが繰り返されることによるインパクトと、私たち、そして次の世代への経済の影響は
原発の暫定的な再運転のリスクと天秤にかけるべきで、それこそ国民投票や選挙を通じて審判するべきだ。

そしてもし国民がNOを突きつけたならば、それは革命でなく法の支配による行革によってでなくてはならない。

■解体と検証
今の東電は明らかに異常であるが、異常であるかすらもわからない。
彼らが彼らの利害関係に法って情報を隠匿するからだ。
ならば然るべき法的な手続きをとって、会社更生法の適用をし、電気事業法を改正し、解体し効率・合理化すべきだ。

■今とりうる最短経路
では然るべき手段とは何か。

それは、デモでなく選挙なのではないか。
国民に与えられた最高で最大の意思表示が選挙だ。

そして、現行政党で上記のようなドラスティックな改革を挙げている政党はひとつ。
維新の会及び第三極。

よって、私は彼らの活動を支援する。

■上記理屈への反駁
デモに参加したことがない以上、上記のような一見客観的な議論を振りかざしても
それは推論でしか無い。

上記1.2.の対立や、それを利用する存在が本当に無いのか、どういう人達がデモに来ていて何を叫んでいるのか知らないと
みずらからの身体を投げ出すことによって、体験しないと意味すら無いし反駁する資格もない。

行ってみなければ分からないということで、自分を投企してみた。


B.「国会前デモに行ってみて思ったこと」

■特定利益集団の存在について
団体職員や党員は、大抵は一目観てわかるなりをしているものだ。
大体、高齢者で謎のジャンパーを羽織って、精気のない顔をしている<あの>人たちだ。

だが、国会前デモは違った。
中には明らかなプロ市民も居たが、ほとんどは何の変哲もない市民だ。

■参加者について
会社帰りのサラリーマン。若いカップル。主婦っぽい人。学生。
そんな明らかに普通の人達が、何万人と集まってシュプレヒコールを上げている。

確かにこれは、戦後かつてない市民によるデモである。

■市民によるデモの意義
ネットで批判しているだけではこの光景は目にできない。
きっと何時まで経っても信じることはできないだろう。

市民による純然たるデモが毎週末、これだけの規模で起こっている事を。
あの大人しい日本人が怒りの、抗議の声を上げていることを。

私は胸が熱くなり、一種の感動すら覚えた。

■シュプレヒコールに潜む「臭さ」
だが、しかしシュプレヒコールの只中に入ってみて分かったことはそれだけじゃなかった。
それは政治活動につきまとう、「臭さ」だ。

雨のシュプレヒコールの熱狂の渦の中で私はその臭気に鼻が曲がりそうだった。
確かに、そこは心地良い。
政府は間違えている。東電は悪い。
叫び声を上げる。
正しいのは私だ。と。

■「臭さ」の正体
だが、本当にそれでそれでいいのか。

ふと横を見ると、豪雨の中乳母車を引いた人たちの一団が涙目で叫んで
いる。
赤ちゃんは困惑しながら泣いている。

気にもとめずに叫ぶ。

私はそこに臭さの正体をみた。
それは、自己愛だ。

■歴史との同一化の快感と良心の疚しさ
確かに、集団の中で個が政治活動をすることは気持ちがいい。
ひょっとしたら自分の力がこの国を変えるかもしれない。
マルクスがいう歴史への意思だ。

それは純然たる「私は今正しいことをしている」という良心なのだろう。

だが、電力政策という国策に対し自己愛において他者を強制的に巻き込む限り、
(乳母車の中の赤子という象徴がなくとも)
それはエゴである。

私はそこに良心の疚しさを感じる。

ニーチェは
「力なき者のルサンチマンが、外へ向けて放出されず内へ向けられるとき、それが『良心の疚しさ』となる。」

と看破したが、
その手段から臭う良心の疚しさが私個人としては、耐えられないのだ。

■デモには細やかな意志が反映されない
デモには集団として一つのメッセージが重要視されるため、個人の意志は反映されない。
そこには私のこうした細やかな意思決定のプロセスは反映されないし、無視される。
細やかなプロセスや議論にこそ重要性があると思う、私の思考はやはりデモには相容れないのだ。

■公の私と個人の私
つまり、公である私は市民による純然たるデモに好感を持ち、肯定しつつも、
個人としての私は「屈折した自己表現」を私は反原発デモに見出し、そこに参加しないことを選択したのである。

■歴史に積極的に関わらない意志
なので私はデモを拒否したが、否定しない。
寧ろ、もっとやればいい。大きくなればいいと思う。
それが、歴史だ。
だが私は歴史には関わらない。その選択をしたまでだ。

■こうして
ようやくこの問題にひとつの終止符をうち、
千年後に爆発するかもしれない原発より、目下最大の問題であるところの「自分」と向き合いつつ、
次の選挙で確実に投票するのを待つまでに至ったのである。

<何故私に恋人が出来ないのか>の数学的証明

先日、NHKの「数学であらゆる問題を解決する」という美味しんぼ的な番組「頭がしびれるテレビ」で、もてない男(喪男)としては非常に興味を惹かれる学説が紹介されていた。地球人と出会う可能性がある地球外文明の数を推測する

・ドレイクの方程式
ソース: http://web1.incl.ne.jp/oyone/keirin/drake.htm

を使い、自分に彼女ができる確率を導き出した、ロンドン在住の30歳の喪男大学院生ピーター・バッカスさん。(参考: http://www.narinari.com/Nd/20100112912.html

本記事は、そのバカバカしくもシュールな挑戦に国境を超えた共感を覚えつつ、

(調べてみても同じ事をしているバカな人がいなかったため)

これが自分だったらどうなの?という知的好奇心に逆らえず、
東京の【私】に於けるドレイクの方程式を算出する試みである。

ドレイクの方程式(彼女算出ver)は、大まかには下記のようなモノだ。

[彼女となりうる人数]=英国人口60975000×女性比0.51×ロンドン在住率0.13×適齢期(24-34歳)率0.20×大卒率0.26×魅力的率0.05=10510人。

これが最低限の算定。さらに

彼女が私を気に入ってくれる率0.05×シングル率0.5×破綻しない率0.1

で、最終的に26人となり、「ある晩、ロンドンで26人のうちの1人に出会う確率」を計算すると、0.0000034%となる(誰でもいいのであれば0.000087 %)。

原文ソース(pdf):http://www2.warwick.ac.uk/fac/soc/economics/staff/phd_students/backus/girlfriend/why_i_dont_have_a_girlfriend.pdf

(参考: http://d.hatena.ne.jp/riocampos/20100118/p1

【極私的】に解釈しつつ、日本に於ける私に当てはめてみた。
それが下記である(回答に誤りがある場合はご容赦されたい)。

■彼女となりうる人数を求める式■

日本国総人口:127,450,459×
ソース:総務省統計局 国勢調査 2012年人口推計
http://www.stat.go.jp/data/jinsui/

女性比:0.512×
ソース:総務省統計局 国勢調査 2012年人口推計
http://www.stat.go.jp/data/jinsui/

東京在住率:0.0984×
ソース:東京都  総務省統計局 国勢調査 2010年人口推計
http://city.eek.jp/13/

適齢期(22-32歳:7,771,000名)率:0.11×
ソース;独立行政法人統計センター 政府統計
http://www.e-stat.go.jp/SG1/estat/List.do?lid=000001010879

魅力的率:0.05×
ソース:このパラメーターは難しく、発案者であるバッカスさんに従った
(彼も難しいと言っているが、100人に5名なのである程度妥当だろう)
http://www.narinari.com/Nd/20100112912.html

※ちなみにここでバッカスさんは大卒率を考慮に入れていたが、
私は「大卒であること」は理想的な彼女の条件で無いため除外した。
彼女が私を気に入ってくれる率:0.01×
ソース:発案者であるイケメンインテリのバッカスさんが5%と設定していたので
本来自分はもっと低い変数だと思うが、見栄をはって仮に1%と設定した。

シングル率:0.55×
ソース:国立社会保障・人口問題研究所 2011年 出生動向基本調査
http://matometanews.com/archives/1501476.html

自分と性格が会う確率:0.1×
ソース:発案者であるバッカスさん10%に対して、コミュ障の私は(見栄をはってかなり多めに見積もって)1%とした。
以上を計算すると、

となる。

このことから、日本全総人口に於ける私の恋人候補は

2名

である。
(かろうじて1名以上になったが、ここに趣味(ゾンビ)が合う確率とか、自分のコミュ障変数とか、おいおい魅力的な子のシングル率がこんな高いわけないだろ変数とか、こんなことをしているやつはそもそもだめだろう変数とか、その他諸々のマイナス変数をかけあわせると更に桁が下がり、小数点に突入し0人に限りなく近くなる)

全人口に対する2名とは

0.000003 %である。

そして、
更に思考を進めると、この確率は

500,000 人の人間と出会えば、2人のうちのどちらかに出会える計算である。

では、その現実性を考えてみると、

人生の総日数約27,375 日(75年×365日)とし、

その中から20%(5475日)を恋愛をできる期間として考えた時、

1日あたり91人と出会わなくては行けない計算となる。
(限りある休日やアフター5を引きこもって過ごしている場合は更にこの数字は高くなる)

上記の行動をすることは肉体的・時間的に不可能である。
よって私には恋人が出来ないのである。

以上、証明終了。

上記証明から導き出される推論として、

「世に遍在する恋愛の圧倒的大多数は自己理性を騙した<妥協>の結果であり、ごくごく少数のお互いが惹かれ合い信じれられる客観的妥当性を担保しうる<運命の>出会いは、<宇宙に生命が存在している可能性くらいの>奇跡である。」

ということが考えられるが、その証明はまた別の機会に譲ることにする。

引き算

朝起きたら布団の中でTwitterとFacebookとインスタグラムの更新状況をチェックし、
起き上がると同時にTVをつけてザッピングし、
トイレを済ませながらマンガを読み、
イヤホンを耳に差し込みながら家を出て、
通勤電車内ではRSSで取得した2ちゃんまとめや有名ブロガーの更新情報をただ眺め、
全部見終わるとまたSNSをチェックしてる頃に会社につき、
コーヒーをいれ、PCを立ちあげて、
経済、広告業界、事件、芸能ニュースに目を通し、
メールをチェックし、
昨日と未来のTODOを整理し、
仕事に取り掛かる。

仕事の合間にも情報は押し寄せ、
また自らもSNSやニュースサイトに情報を取得しに行く。

帰り道も、帰っても、情報は山のように押し寄せてくる。
また自分でも中毒のように情報を取りに行く。

これがいつもの一日の過ごし方。

振り返るとその情報のすべてが自分の遠くで起こっている事象の単なる確認に過ぎず、それを得ることによる安心のために情報を触れたいという欲求過ぎず、つまるところはそのすべてが自らの血肉にならない「寂しさ」や「不安」の塊のクソだと気づく。
あゝ、クソと戯れるために残り少ない貴重な時間を切り売りするなんて、なんて壮大な人生の無駄使いだ。

こうして泥酔の翌日の悔恨のように、その情報の津波から逃げたくなる。

そう
ミニマルな世界へ。

ミニマルとは、「最小限の」という意味である。

多くの情報から大切な情報のみを選択するという事。

人生から情報を引き算をしなくてはいけない。
大切な情報だけを選択し、摂食する。

これが人生を豊かにするヒケツなんじゃないかと最近思う。

ちゃんとしたものを食べ、
読み、
見て、
聞き、
書き、
動き、
話す。

なかなかどうして社会や依存はそれを許してくれないけど、
意識することで多少、変わるんじゃないかなと思う。

足し算はもういいだろう。
人生に本当に必要な事だけ、それだけを摂取していればいい。

何が幸せなのか、何故生きるのか、どう善を成すのか、どう死ぬのか。
考えるべき大事なことは山ほどある。

引き算だ。
常に、引き算を心がけよう。

先日、富士五湖の西湖に行き、数時間程座って、湖面を眺めていた。
碧い空、ゆっくりと動く雲、しんとして鈍色の鏡のような湖面。
引き算を重ねた景色。

その時間は驚くほど何もなくて、信じられないくらい豊かだった。

ああ、またあそこに戻りたい。
戻って、座わりたい。

それでいいんだ。
それだけで。

母の日

「母の日」というフレーズが、こんなに胸を刺す日がくるとは。
どれだけ感謝し尽くしても、その言葉はもう届かない。
そのフレーズを目にする度、耳にする度、不可逆な時間に小さい絶望が胸を刺す。
まだ間に合う人。
今、大事にしてあげてね。