寓話「柘榴フィリア」

バスに乗ってふと外を見ると全裸でこちらに走ってくる人がいるではないか。
「おや」
と思って見てみる。よく見てみると人は、男か女かわからない。
わからないのでよく目を凝らしてみるのだが、男とゆうには小柄だし、女とゆうには輪郭が丸くない。
「ならば」
と思って股間を見やるが、どうにも股間に焦点が合わない。見よう見ようと目をそばめるが、股間のまわりは何だかモヤモヤとしたものがあって、なかなか判然としない。
見てみえないものや、考えてわからないものがあるなんて何だか癪に触るので、
「全身タイツみたいなもんか」
と思って、やり過ごす事にした。
釈然としてみると全身タイツは顔もモヤモヤしている事に気がついた。
まあでも全身タイツを着たままだとゆうのなら、全て納得がいくから、とりあえず静観してみる事にした。
バスは信号待ちで停止した。
全身タイツは路上を走って、ずんずんずんずん近づいてくる。
「箱根駅伝の山梨学園みたい」
その時、突然全身タイツの頭がぱっくりと割れた。
エイリアンの卵かとゆう程にぱっくりと。
遠くから見てもわかるくらいに割れた頭から赤い脳漿が見て取れる。
「まるで柘榴みたいだ。」
全身タイツはそれでもなお休まず、バスへと走り続けてる。全身タイツに気付いているバスの乗客は私だけだ。
となりにいるサラリーマンやおばさんに全身タイツの存在を言いたいのだが、初対面の人に話しかけるのは何だか恥ずかしいので躊躇される。
迷っている間に脳漿を全開にして、ずんずんずんずん近づいてくる全身タイツ人間。
今まで
「面白いなぁこのキ○チガイ」
と愉快に思っていた私だが、突然、なんだか怖くなってきた
10mを残して。
鮮明に見える脳と血の真紅が正体不明の意味不明に恐怖だ。

恐怖が猛然と走ってくる。
私に向かって。
「うわっ怖っ」
「くんなくんなくんな」
と思った。
するとバスは走りはじめ、バスは速度をあげる。距離が離れ始める。
全身タイツは懸命に僕に向かって走ってくる。
まさに懸命だ。
しかし距離は離れる。
「ああ良かったー」
なんだかほっとする私。
すると再び、バスは信号待ちになる。全身タイツはずんずん来ゆる。
またドキドキする。
三度バスは走りはじめ、距離は離れる。
が、三度信号待ちになり―――――

徐々に近づいてくる柘榴全身タイツは、躊躇う事を知らない。
いよいよ距離1m。

30cm。
すると目の前で立ち止まる全身タイツ。

彼は 立ち尽くしている。

頭は割れているが、
全裸だが、

車道を走っていたが、
立ち尽くしている。
バスはその後、すぐにその場を走り去った。


『 老人は海を見つめている。
果てしなく広がる豊饒の海を。
その顔には幾重にも重なる皺が深く刻印されている。
彼の人生に於ける、懊悩が、歓喜が、苦難が、克己が、その全てが一つ一つの溝に表れている。
その目には寂涼とした世界が映るのか、それとも満足の光で包まれた世界が映るのか…』


さて、この話はしかし、人間の話ではない。
この話の主人公、つまり第一人称の「老人」は、一個の、ありふれた鞄なのである。
鞄は、40年以上も前、その彼の主人が若者であった頃その手によって偶然選び出され、購入された。彼は京都職人の手によって誕生した。
鞄である彼には、その購入の理由など知る由もなかったし、また興味も無かった。
主人にただ従順に仕えることが運命付けられている鞄は、その役目を果たす事のみに、その全生命を注いだ。
ある時は、重い荷物を無理やりに詰め込まれ、苦しい思いもしたし、またある時は主人の出張に付き合うため、日本中を駆けずり回されもした。あまつさえ、酔ったご主人にタクシーの中に忘れ去られた事もあった。
しかし、鞄は覚えている。
何度壊れても、破けてもその度に修繕をし、大事に大事に使って頂いた事を。
何度忘れても、どんなに遠くても絶対に翌日には彼を迎えに来てくれたことを。
そうした長い長い年月、鞄と主人は敬意と愛情の関係を保ち、様々な困難に立ち向かった。

取引先に足蹴にされずぶ濡れになった悔しさ、プロポーズの瞬間、不可能と思われた商談を勝ち取った歓喜、愛すべき両親との別離…
様々な栄枯盛衰が彼と鞄の横を滑り落ちていった。
幾つものドラマが、生まれては消えていった。

そうしていると、時がいつしか、彼らに永劫消える事の無い深い皺を刻み込んだ。
その一つ一つの皺は彼らに、唯一無二の個性を付随し、その存在とその生き様を輝かせている。
降り積もった時の重みと、その過程にある努力の重みとが混ざり合って、その存在を主張しているのだ。
今、二人は、海を眺めている。
過ぎ去った時間と、その重みを味わいながら。
数々の戦いと、それを乗り越えた思い出の歓喜を噛み締めながら。

冒頭の疑問文をここで訂正しよう。

人生を全力で駆け抜けた者に後悔は、無い。
彼らは相棒に深く刻まれた皺を見て、それを確認するのであった。

さてこのモデルとなった鞄は既に僕の元にある。この物語を自分のものと出来るか。そんな課題を、未来の僕に課してみたいと思う。】


…なんて文をとある会社の課題作文で書いたのは半年前。
ちなみにこれお題は「鞄」だった。
懐かしいなあ。就職活動。
てかこの文、殆ど遊びじゃんね(笑)
いや、それ以前に

・・・この鞄、無い!(笑

幸せと天国について

「あなたにとって天国とはどんなところですか?」
という質問を投げかけたとすると千差万別、十人十色の返答がかえってくるに違いない。
あなたはどんな答えを返してくるだろうか?

ちょっと予測できる程度だと

名誉?永遠の命?金?女?(男?)学問?恋?

皆さんはおそらくしかもそれらに類するものが永遠に約束される土地を想像されたのではないかと思う。
その選択肢は世の中の欲望と同数。つまり膨大な数に及ぶと考えられる。
それは実にごもっともなことで、僕らが想像する天国とは各個人のもっとも満たしたいと考える欲望を充足させる機能を潜在的に備えているはずなのだ。
そしてその殆どは、人との関係性によって得られるもの、たとえば先に挙げた例のような、金・名誉・恋・学問のようなものである。
そしてそれはいずれも現世の想像の範疇を越えるものではない。
これらの欲望は、つまるところ、他者との相対的優位性の認識に基づく充足により得ることのできる幸せなのである。
ちょっと例をあげると
「俺はあいつより金持ちで、かつ社会的地位もあるな。」
「私はあの子より友達が多いいわ」
「自分以外の奴らはみんな糞音楽しか作っていない。どうして真の芸術性の存在に気づかないのだろう?このグルーピーどもが」
「こいつらみんなぶさいくだな」
「彼の考え方はそういった意味では学問的価値には値しないね」
「私は友達のだれよりも彼氏に愛されているから幸せだわ」
などなど、これら全て他者と自分を比べた結果、それを自らの地位や、スキルや 状況の優位性を確かめたような言動である。
つまり、いづれも他者の評価を前提を前提とした欲求なのである。
たとえば男の皆さん無人島で美女と二人になったとしても、性欲は喚起されずかえってそれは減退してしまうだろう。友人たちの評価、社会的評価を前提としての美女なのである(「そんなことはない。自分だけは精神的に愛している」というひと。それも間違いである。それはそういった人間が素晴らしいという社会的なバイアスが君の精神にかかっている。各個人の精神は決して歴史の流れから開放されることはない。そしてそれは愛も例外ではない)。
こういった欲望は幸せと連結している。
では、この欲望を世界の人々が一律に満たすすべはあるのだろうか?
ちょっと考えてみればわかると思うがそんな方法は無い。
他人の評価、他者との優位性はそこに敗者がいなければ成り立たない概念であるからだ。
幸せ自体に不幸が内在されている
つまり幸せその概念そのものが矛盾を内包しているのだ
すなわち肉体的、精神的な敗者がいてこその欲望であり、それの充足が幸せであるとすると、いわゆる「共有地の悲劇」により天国は存在しない(できない)ことになろう。
可能性がすなわち天国であり、万人の幸福であるのだ
こんなことをいっていると「人類の歴史は闘争である」なんて言い出しそうだが今日は違う。
僕は何年前だろうか?
じつは天国を発見した。
それは
「もしもBOX」

である。
衆知のように、これはドラえもんの道具である。
電話ボックスのようになっていて、その受話器から話した「もしも」の世界が現実になるという、素晴らしい不思議道具である(どうやら時間軸をずらすことで別の世界の存在をなれる道具らしい)。
これはやばい。
これが発明されたなら、先に述べた人々の果たされない欲望はすべて見事に解決される。
人々はそれぞれの評価を受けるべき世界を作り出して、美と醜による差別もないので、美女をはべらせて暮らすもいいし、この世あの世の区別の無いので、御仏の御許で湯浴みをして暮らすもいい、金銭的制約も無いので、世界の指導者になるもいい。こうすれば、少数者な不幸者などという概念もなくなり、万人の平等的幸福が実現されるに違いない(でもそんなものがあるのにどうして、ドラえもんの中の未来人はまだ満たされているように見えないのだろうか?というか、この道具は人間の根本的存在理由までかき消す装置なきがする。この道具そのものが未来を打ち壊し、消滅させてもおかしくはないだろう。この人間の苦悩こそが人間を規定するという考えは面白い。またいつかその点も触れてみたい。論理のパラドックスである。)

しかし、もうひとつの問題がある。
そもそも、全ての世界が個人の認識によって成り立つとするならば、未だ見ぬ欲求はありえない。
未だ見ぬ欲望はありえない。
人は想像の範囲内でしか望みを抱き得ないのだ。
つまりもしもBOXを人類が開発したとしても、未視の世界を見ることはできない。既知の世界の要素を組み合わせた想像力の産物以外にはなにも生まれないのであるならば、それが人類の限界ということができるかもしれない(結局は宇宙やミクロの世界の精巧で広大な構造、つまり現実の自然の圧倒的な想像力に人類は指導を仰ぐしかなくなるであろう)。
しかし、その限界を限界として考ないならば、この道具はまさに革命であることにかわりはない。
人類の幸福が相対評価から絶対評価へと移行するのだ! 
これは同時に人類の認識の革命である!
その先にまっているものが、世界の終焉なのか、究極の楽園であるのかわからないが、人類にとって当面のあいだは絶対幸福が続くに違いないであろう。

つまり僕がおもったのは、
もしもBOX≒天国

なのである。

↑天国への扉つまりヘブンズドア

メゲモニー

今日は、とある某眼鏡会社のセミナーにいってきた。
僕は戯れにその会社にエントリーシートをだしたのだが、運が良く(?)通過し、今日は筆記試験と、説明会であった。

!!
一時に会場につくとそこには予想だにしなかった光景がひろがっていた。
眼鏡、眼鏡、眼鏡…
眼鏡、眼鏡の群…

いや、私は気づいていた。
会場の赤羽駅から眼鏡の、男女の一塊が、群をなして歩いていた事を。
眼鏡、眼鏡の群…
そしてその群が恐らくある一点を目指して、まるで鮭の産卵の如く猛進している事を…。(会場にあがるエレベーターに至っては、眼鏡人口が100%だった!
右をみても眼鏡…
左をみても眼鏡…

これぞまさに僕の思いえがいた眼鏡の国…
眼鏡の理想郷…。
そう、眼鏡の眼鏡による眼鏡の為の会社だった。
眼鏡が眼鏡として社会的地位を確立し、眼鏡独自のアイデンティティと、眼鏡の自治を確立し、眼鏡が眼鏡の法によっておさめられる、眼鏡の自由!
そこでは、男女の差はない…
もはや両性有具と変わらぬ、絶対の平等と平和!
ブルジョワジーへの無言の反抗の萌芽がそこには芽生えていた…。
しばし恍惚としながらその眼鏡の山をみやって思った。
「…もはや、眼鏡の国家は理想ではない。」
革命はすぐそこに迫っていた。
(…こんなにも眼鏡が存在していたとは!)
(…こんなにも眼鏡の似合う人間がたくさんいたとは!)
眼鏡達はやがて眼鏡会社の一室にに吸い込まれていった。
我が眼鏡の同胞は皆、一律に真剣なる決死の形相をして、眼鏡会社の眼鏡アナウンサーから、紹介された眼鏡人事から眼鏡会社のマーケティングと眼鏡の経営戦略をきき、眼鏡の商法や眼鏡の教育制度を眼鏡の総務からきいた。
眼鏡の若手社員から配られた、眼鏡の為の試験をうけ、「これからの眼鏡会社は眼鏡を売るためになにが必要か」という「眼鏡の作文」をかいた。
眼鏡の伝導師。
すなわち「愛の伝導師」となる為に。

眼鏡達は、眼鏡試験を終えた。
彼らは眼鏡の一群としてまた各家々へと帰っていった。
それぞれの眼鏡への思いを秘めて。
まさに、怒濤のような眼鏡の一日だった…。
僕らは眼鏡の日だった。
世間のみんなは幸せなゴールデンウィークであった。
この眼鏡という機械的で喜劇的なな響きと、ゴールデンウィークといぅ幸せな響きとで、まるで美しいコントラストのようだ。
美しいクラシックの四重奏をきいているような心地の良い気分だ。
眼鏡とゴールデンウィーク。
眼鏡とゴールデンウィーク。
あは。
あははははは。
はははははははははははははははははははははははははははははははははははははははは。
皆…眼鏡の準備はよいか?
革命の季節はもうすぐそこだ…。
(ところで僕はその時、眼鏡同士としては、あるまじきある奇妙な感覚を覚えた。眼鏡だらけのところにいると眼鏡である自分の個性が没個性になってしまい眼鏡としてのアイデンティティが崩壊の危機に晒されようとするような感じだ…。僕も知らず知らずの間に、自己を眼鏡として、眼鏡を自己としてとらえ、眼鏡をアイデンティティとしていたのかもしれない…。こんな考えでは革命のぺ書記長の補佐としての任務が務まるか疑わしい。激しく反省し、自己規律を見直すとともに、最低「眼鏡党宣言」を百回は再読し、滝にうたれなければならん。いかんいかん。)
↓眼鏡神社

拳闘士

我が家には、
15年と4ヶ月歳の団子がある。
といっても食するものではない。戦う団子だ。

そいつは赤土を主な原材料としている。適度な水分を与え、輝き磨き上げた「つや」が黒々と光っている。
「誰よりも硬く」「誰よりも美しく」

そう少年は考え、近所各地の遊び場にある粒子の細かい砂をふりかけ、何日も何時間もかけて磨く。惚れ惚れとその黒真珠のような美しさと、その潜在的にもつ「強さ」に見とれる。
そして自らの及ぶ限りの英知と技巧をもって作り上げたそれを、友人らと砂塵舞う公園に持ち合い「決闘」を行うのである。
ある一定の高度から落とされた団子は、重力によって加速度を増し、相手側の団子へ向かって落下していく。

そして一瞬の後、勝敗は決するのである。

勝者は歓喜の声を上げ、敗者は本気の涙を流す。

つまるところ、僕は「遊び」とはこうあらねばならぬと思っている。常に男はこのような真剣勝負の感覚を忘れてはいけないのではないか。

純粋でひたむきな情熱をもって、磨き上げ、鍛え上げる事に意義がある。
そうして作り上げ、愛しさえした団子を恐れずに勝負の場にさらすことに意義がある。
また、真二つに砕けた団子を見て、悔し涙を流すとも、更なる高みを目指し、新たな相棒の制作に取り掛かる姿勢に意義がある。
勝利ようとも慢心せず、次なる刺客との勝負に備えたゆまぬ努力で鍛錬をすることに意義がある。

団子は言わば、そうした「生き方」の象徴であるのだ。
団子は自らの身をもって「遊び」の枠を超え、少年に「強さ」を教えてくれたのかもしれない。

さて、ちなみに我が家の誇る戦士は幾多の団子との壮絶な戦闘を終え、今は我が家のガスメーターの中で黒光を放ちながら静かに蟄居している。
先日、十年経た今も一人孤高に誇らしげな彼の姿を見て僕は、姿勢を正し、凛と生きようと思った。