1934年に世界最初のゾンビ映画「ホワイトゾンビ」が銀幕に登場して以降、ゾンビカルチャーはまるでスクリーンの中のゾンビように、同時多発的に世界中に広がり、増殖の一途を辿っている。
ゾンビ映画はゾンビ情報を欲するゾンビのようなゾンビファンのニーズに下支えされることで、小規模ながらも頑強なマーケットが世界中で形成され、それにゾンビ映画を愛する作り手たちが呼応することで、結果星の数程のゾンビ映画が作られる。
ネズミゾンビからトマトゾンビ、はたまたおっぱいゾンビから、ブラッド・ピット主演のゾンビ映画「ワールドウォーZ」までに至る、一大文化圏をなしている。
この文化には、他の文化にない特異な点が一つある。
共通して言えるこは、その根底に流れるすべての源泉、原点にして到達点が“一つ”である、ということだ。
それはだた一人の監督の作品だ。
George Andrew Romero。
彼の作品はすべてゾンビという「マイノリティ」とマジョリティの対立をテーマとしている。
始りの瞬間はたった一人で、ただ空腹で、人を噛むという目的にだけに、世界でただ一人で生きる(死ぬ)ゾンビ。
正気から、法律から、さらには生物という概念からすら外れた社会の外側にいるマイノリティ。
どちらかというとその存在は、社会秩序という暴力と退治すると弱々しくすらある。
だが彼らは、人を噛み、増えて増えていく。
その過程のある特異点において数的優位(マジョリティ)に立ち、優位がひっくり返る。
圧倒的数量で人々を押し流し押しつぶす。
人々は法律、経済、教育、道徳の秩序が崩壊し、自分が今まで当たり前のように与えられたきた事全てをいやおうなく捨て、
自らの頭と手で、それらを選択し、決断して生きていかなければないことを知る。
自分を規定し、守り、依存していた今までの秩序の崩壊を目の前にして、人々は自らと対峙し、理性とエゴそして渦巻く欲望と戦い、他者と対峙して愛や暴力と向き合うこととなる。
一方でゾンビ側は簡単だ。
彼らはただ食べたいだけ。
ただ、腹が減っているだけなのだ。
ここでふと、気づく視聴者は我に帰る。
ゾンビと私の違いは?
他の生き物を殺し、
余ったものを捨て、
他人に無関心で、
貧しいものに分け合わず、
隣人を愛さず、
殺し、殺され、金欲や名誉欲や色欲、秩序を盲目的に信じたい欲に溺れ、
不目的で、
道徳のない存在は誰だ?
それは人間だ。
ゾンビはただ、食べたいだけ。
その動機は人間と変わらない。
対象が人間なだけで、よっぽと人間のほうが疚しい。
ロメロの映画で描かれるのはそんな徹底した「平等」だ。
動物の肉を食う人。
人を喰う肉。
暴力を振るう人間。
人を喰う人間。
人を見捨てる人間。
見捨てることすら捨てた人間。
それでも愛を選択する人間。
愛を捨て、帝国を築く人間。
愛に死ぬ人間。
信仰に死ぬ人間。
欲で生きる人間。
助かるオタク・マイノリティ。
死ぬリア充・マジョリティ。
ソンビ映画は、秩序や権威崩壊後の世界を浮き彫りにし、各々の道徳に迫る。
そのダイナミズムがゾンビ映画の一番の魅力であり、カタルシスでもある。
そのゾンビ映画は、ロメロが第一作「ナイト・オブ・ザ・リビング・デッド」を完成した1968年にすでに「完成」している。
すでに完成しているゾンビ映画を超克しようとする試みがゾンビ映画なのだ。
つまりゾンビ映画とは、その映画のルーツがそれ自身で持つロメロへの規定や拘束を条件とし、マイノリティを描く過程で視聴者にその立ち位置を迫る一大様式美がゾンビ映画であり、ゾンビ映画群なのだ。
事実、そしてその星の数ほど作られるゾンビ映画の殆どが、ロメロを崇拝し、ロメロを到達点とし、ロメロを目指して制作されている。
人の死、復活、食、恐れ、恐怖。
そのそれぞれに深く密接し、分かつことのできないテーマに根ざすゾンビ映画。
これらは我々が知的生命体である限り、進化していく限り、進化が厭世を生む限り、マイノリティがある限り、生命に限りがある限り、永遠に増殖していく。
ご承知の通り、それらは絶対に無くならない。
ゾンビ映画は民衆に迫るだろう。
君にとって生は?
正しいとは?
それこそが、ゾンビを作った神、ロメロが提示した問いであり、
人々はある時、ゾンビのように世界を“侵食”した、彼の真の意思に気づくのだろう。