娘がもう一人来るらしい

どうやら、第二子も女性で確定のこと。

長男で唯一の男である私。
正直、跡取りついて考えたことも少なくはない。

だが、第一子の娘が産まれた。
それですべて吹っ飛んだ。
彼女が与えてくれる体験が圧倒的過ぎた。

自分が死んだあとの事はわからん。
跡取りのいなくなった自分の家もしらん。

人間、生きて死ぬまでどんだけ幸福を味わえるかだと思う。それがすべててそれ以上はあの世に持っていけない。責任も取れない。

その点、幸福という観点で見ると、男親にとっての娘は殺人的だ。

その娘が2人。2人。
妻、娘、娘。

気の強い、おしゃべりな女だらけの家で、
どやされながら過ごす人生も悪くない。

いや、最高だな。

トラブルと予測不能こそ、子育ての醍醐味だ

新型コロナによる。在宅×育児のパラレル生活も早3ヶ月。
最初は大変だった育児と仕事の両立も、すっかり新しい日常になった頃、緊急事態宣言は解除された。

嫁は仕事に行き、娘は保育園に行った。

そんなわけで今日、実に三ヶ月ぶりに一人で飯を食った。

ずっと行きたかった、子供お断りのラーメン屋だ。
そこそこ美味かったのだが、何か物足りない。

はて、なんだろうと考えて、わかった。

一人で昼を過ごす、時間そのものがものたりないんだ。

大人が一人で飯を食えば、まぁだいたいすべてのことが予測できる。出発時間、徒歩の道順、食って戻る時間、仕事の前のコーヒーブレーク。
そうだ、計画通り、順調だ。

だが、退屈だった。

思い返してみると、この三ヶ月はすべてが予測不能だった。

娘のうんこが漏れた。
見たこともない虫をみた娘が泣いた。
子猫が死んでいて、娘がそれを潰れてると表現した。
娘がおばあさんにりんごジュースを貰った。
娘がコンビニの外人店員さんに可愛がられた。
朝の神社で家族並んでコンビニ飯を食った。
娘がコンビニに入るやいなやヨーグルトを2つ持って買えとせがむ様になった。
娘が親を二人目の前に並ばせて、自ら歌うようになった。
娘と仕事上がりに公園に行き、俺はビールを呑んだ。

子供が生まれた。
たしかに個人の自由はなくなった。

だが代わりに、トラブルを得た。
予測不能でエキサイティングな体験だ。
一切退屈はしなかった。

そう。
トラブルと予測不能こそ、子育ての醍醐味なのだ。

娘と会える時間は少し減ってしまった。
だがその分、今、この瞬間しか味わえない予測不能な愛しいトラブルを噛み締めよう。

そして何より、娘はかわいい。

ブログ移転のお知らせ

ご訪問、ありがとうございます!
この度JUGEMブログから、オリジナルブログに引っ越すことにしました。

■新URL
https://curlcord.net/

大学時代2003年から書きはじめたので、足掛け17年になります。

その間、モラトリアムに居た一人の青年は、就職し、母と死別し、結婚し、家族も増えました。

そんな折、このブログは遺書みたいなもんなのかな、と思うようになりました。

いつか自分が死んだ時、私という一人の人間がどういうようなことを考えて、生き、そして死んだのか、知りたいと思ってくれた殊勝な方がいたならば、このブログをエッセイ読むように読んでもらいたいなと。

であるならば、もっと力を入れてもいいんじゃないかと思うに至り、無料ブログから引っ越すことにした次第です。

これからも、流れれゆく感情、人生における大切な気付き、そして大事な人に遺したい言葉。
そんなものを綴っていきたいと思います。

なんか今にも死んじゃうみたいな書き方ですが、まだまだ私の人生は続きます。
死を傍らに、忘れずに先に進もうと思ってます。

これからも、どうぞよろしくお願い致します。

林の中の象のように

人からの評価に依存するな。
自分がやった仕事“そのもの”を自らで正当に評価せよ。
自分を評価しない人、しなかった人を逆恨みするな。それは逆に復讐をして腹いせを晴らしているだけのことだ。
いたずらに悲観するな。それはかわいそうな自分を慰めてるだけだ。
思いを込めて精一杯やった仕事なら、その別離は人のせいでも、自分のせいでもない。
それを糧にし、切り替えろ、精一杯やれ、先に進め。

「孤独に歩め。悪をなさず。求めるところは少なく。林の中の象のように。」

北極星

運命は時として、あがらいがたい力で思いもよらない方向に自分を連れて行く。

そういう時、事実は慄然と目の前に立ち、僕の意志の力をたやすくねじ曲げる。

抵抗は出来ない。踏ん張ってもどうにもならない。
僕は右に、上にと翻弄されるしかない。
洪水の中の一筋の藁のように。

社会、法律、友達、それら目線。病気、事故、不幸。その洪水。

だが、ただ黙って流され、翻弄されているだけじゃない。
選択するんだ。

運命のうねりのなかで、意思を持って舵をきるんだ。

横滑りしながらも、転倒しながらも、それでもあるべき方向を見失ってはいけない。

それを見るんだ。

それは、胸の中にある一番大事なものだ。

それは、
ほっとするものだ。
愛しいものだ。
守りたいものだ。

それを、忘れなければ僕たちは運命に負けることはない。
それを忘れたら、闇の中で、ただ、自分しかいない。
忘れてはいけない。もらったもの、与えるもの。

溺れる藁には無い、意思、選択。

何が起きても、どんな困難でも、その嵐の中で
胸にあるものを忘れずに思い出そう。

思い出そう。

ゾンビ映画考

1934年に世界最初のゾンビ映画「ホワイトゾンビ」が銀幕に登場して以降、ゾンビカルチャーはまるでスクリーンの中のゾンビように、同時多発的に世界中に広がり、増殖の一途を辿っている。

ゾンビ映画はゾンビ情報を欲するゾンビのようなゾンビファンのニーズに下支えされることで、小規模ながらも頑強なマーケットが世界中で形成され、それにゾンビ映画を愛する作り手たちが呼応することで、結果星の数程のゾンビ映画が作られる。

ネズミゾンビからトマトゾンビ、はたまたおっぱいゾンビから、ブラッド・ピット主演のゾンビ映画「ワールドウォーZ」までに至る、一大文化圏をなしている。

この文化には、他の文化にない特異な点が一つある。

共通して言えるこは、その根底に流れるすべての源泉、原点にして到達点が“一つ”である、ということだ。

それはだた一人の監督の作品だ。

George Andrew Romero。

彼の作品はすべてゾンビという「マイノリティ」とマジョリティの対立をテーマとしている。

始りの瞬間はたった一人で、ただ空腹で、人を噛むという目的にだけに、世界でただ一人で生きる(死ぬ)ゾンビ。
正気から、法律から、さらには生物という概念からすら外れた社会の外側にいるマイノリティ。
どちらかというとその存在は、社会秩序という暴力と退治すると弱々しくすらある。

だが彼らは、人を噛み、増えて増えていく。
その過程のある特異点において数的優位(マジョリティ)に立ち、優位がひっくり返る。
圧倒的数量で人々を押し流し押しつぶす。

人々は法律、経済、教育、道徳の秩序が崩壊し、自分が今まで当たり前のように与えられたきた事全てをいやおうなく捨て、
自らの頭と手で、それらを選択し、決断して生きていかなければないことを知る。

自分を規定し、守り、依存していた今までの秩序の崩壊を目の前にして、人々は自らと対峙し、理性とエゴそして渦巻く欲望と戦い、他者と対峙して愛や暴力と向き合うこととなる。

一方でゾンビ側は簡単だ。
彼らはただ食べたいだけ。

ただ、腹が減っているだけなのだ。

ここでふと、気づく視聴者は我に帰る。

ゾンビと私の違いは?

他の生き物を殺し、
余ったものを捨て、
他人に無関心で、
貧しいものに分け合わず、
隣人を愛さず、
殺し、殺され、金欲や名誉欲や色欲、秩序を盲目的に信じたい欲に溺れ、
不目的で、
道徳のない存在は誰だ?
それは人間だ。

ゾンビはただ、食べたいだけ。
その動機は人間と変わらない。
対象が人間なだけで、よっぽと人間のほうが疚しい。

ロメロの映画で描かれるのはそんな徹底した「平等」だ。

動物の肉を食う人。
人を喰う肉。

暴力を振るう人間。
人を喰う人間。

人を見捨てる人間。
見捨てることすら捨てた人間。

それでも愛を選択する人間。
愛を捨て、帝国を築く人間。

愛に死ぬ人間。
信仰に死ぬ人間。
欲で生きる人間。

助かるオタク・マイノリティ。
死ぬリア充・マジョリティ。

ソンビ映画は、秩序や権威崩壊後の世界を浮き彫りにし、各々の道徳に迫る。
そのダイナミズムがゾンビ映画の一番の魅力であり、カタルシスでもある。

そのゾンビ映画は、ロメロが第一作「ナイト・オブ・ザ・リビング・デッド」を完成した1968年にすでに「完成」している。
すでに完成しているゾンビ映画を超克しようとする試みがゾンビ映画なのだ。

つまりゾンビ映画とは、その映画のルーツがそれ自身で持つロメロへの規定や拘束を条件とし、マイノリティを描く過程で視聴者にその立ち位置を迫る一大様式美がゾンビ映画であり、ゾンビ映画群なのだ。

事実、そしてその星の数ほど作られるゾンビ映画の殆どが、ロメロを崇拝し、ロメロを到達点とし、ロメロを目指して制作されている。

人の死、復活、食、恐れ、恐怖。
そのそれぞれに深く密接し、分かつことのできないテーマに根ざすゾンビ映画。

これらは我々が知的生命体である限り、進化していく限り、進化が厭世を生む限り、マイノリティがある限り、生命に限りがある限り、永遠に増殖していく。
ご承知の通り、それらは絶対に無くならない。

ゾンビ映画は民衆に迫るだろう。

君にとって生は?
正しいとは?

それこそが、ゾンビを作った神、ロメロが提示した問いであり、
人々はある時、ゾンビのように世界を“侵食”した、彼の真の意思に気づくのだろう。

在り方

人は、いや人の生き方は、

世界の認識の善悪に出る、
話題とその選び方に出る、
その言葉の選び方の節々に出る、
そのふるまいの品にに出る、
全ての行動の方向性に出る、
身なりのアピール性に出る、
身体の姿勢に出る、
細かい表情の表し方に出る、
刻まれた顔の皺に出る。
 
結果、人との関わり方に出るし、
人の反応に出るし、
仕事に出るし、
生き方に出る。
死の看取り方にも出るし、
我が身の死に方にも出る。
 
全てはありのままで、裸のままで自分の前にある。
ただ、見るだけで良い。
やるだけで、良い。

想い

自分にそれがあるように、
人には機嫌の良し悪しもあるし、
浮き沈みもあるし、
悪い感情もあるし、
良い感情もあるし、
論理的非合理も合理もある。
そんな事を私はどうしてわからないのだろう。
わかりあえないのだろう。
わかるのだろう。
わかった気になるのだろう。
わからないのだろう。

組織の外

驕ってはいけない。
決して、驕っては、いけない。
それが無償でも、微償でも。
許せ、認めろ。
それが当然だ。
何故なら私は、まだ「内」の殻から出てもいないのだから。
その覚悟すら無いのだから。

レゾンデートル

自らの安らぎや、心地良い事、楽しさや豊かさを、他者と享受する事。
又はそれらへの志向性を、愛と表現するならば。
そして、その中に存在する主体性をエゴイズムというならば、愛は愛だけで存在足りうるのだろうか。