選択と判断

昨年僕は

>今年はきっと母と向きあう年になる。

と書いた、結果そうなって、

最終的に僕と母の一年は最悪な結末で幕を閉じることになった。また、そのエントリーの中でこう書いていた。

>死や病に関しての自分の中でのスタンスを決め込むことができた。

こんなのは机上の空論にすぎなかった。
実際の死の前では、スタンスなんてまさに砂上の楼閣だった。

死は怖い、死は暗い、死は美しくない、死は苦しい、死は逃れられない。

そのことがわかった。

また、

>逃げずに、悲観せずに、楽しみ、自制する。

とも書いた。
果たして
逃げなかっただろうか?
ちゃんと向き合っただろうか?
母の支えになれただろうか?

母は寂しい想いをしなかっただろうか?
あの時の自分のあの発言は母を傷つけなかっただろうか?
あの夜の決断は間違えていなかっただろうか?

その問いに答えてくれる母はもう居ない。

きっとずっと、問い続けるのだろう。
やれることはやったんだという自分と、
もっとできたんじゃないかという自分と。

この二年間、やれることはやったんだという自分と。
意識を失う前の最期の数週間を会社終わってからも行けたんじゃないか、もっとできたんじゃないか、実は逃げんたんじゃないかと内なる自分が自分を責める自分と。

その煩悶はきっとずっと続くし、続くべきだと思う。
それはきっとたったひとりで。

判然としない疑問結論の中で、ただひとつ分かっていることは、過去に自分はそう判断し動いたということ。
そして過去を挽回できるチャンスはもう二度とやってこない事。

だから過去の過失に囚われるのでは無く、そういう選択をしたという強い自分も弱い自分も含めた自分とき合おう。

そうして自分と外の世界をよりよい形で変えていこう。
自分の選択に、自信を持てるような環境と論理を形成しよう。

それが、多分あの息子思いの母の望んでいる事だろう。と、薄っすら信じて。

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