減算

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大事な人が亡くなった瞬間、その悲しみはピークに達する。
そして、時が経つにつれ悲しみは(時として乱高下しながら)、ゆるやかに下降線を描きながら小さくなっていく。

「死と太陽は直視できない」とフーコーが言ったのは、何も本人だけでなく、遺族にも他者にも当てはまる。
毎日の仕事、作業、娯楽の中で、毎日片時も欠かさず、死を意識し続けていることは難しい。

「この人は親を亡くした人なんだな」
「僕は親を亡くした人間だ」といつまでも表明し続ける事はできない。
死は生活に持ち込めない。

だから母の死なんてなかったように、僕の周りの人達は僕に笑顔で接する。
僕も笑顔でそれに返す。

その度胸がチクリと痛む。

その痛みを誤魔化したり続くと、痛むことすら少なくなっていくことに気づく。
すると、僕の心に声がする。

「お前にとって母の存在はその程度だったのか」

と。


宗教を介さない素朴な
「故人を思う事」は、
死に対する一般的な倫理観を下敷きにすると、下記の命題が成り立つ。

命題A:倫理観「命は何よりも重い」=「命の優先順位は最上位で在るべき」=「命を軽んじる奴は悪い」
命題B:他者を思う気持ち「自分だったら忘れてほしくはない」=「忘れられた人は悲しいに違いない」
命題C:事実「自分は死を忘れていく」
命題D:「故人は命題ABを否定しない」

すると、上記命題ABCDが繋がって、
「死を忘れる自分」は「忘れられた人を悲しませて」いて、「命を最優先課題で考えない」、「命を軽んじる悪いやつ」
となる。
これが罪悪感の正体だ。
亡くなった母が蘇って否定でもしてくれない限り、この円環は僕が死んで僕という主体が消滅するか、、或いは完全に感覚が麻痺するまで止まることは無い。

まあ、要は僕は薄情な奴なのだ、とここに告白することで楽になろうとしているのである。


故人を思うことと、生者が普通に生活をする事との間には、
死者との対話が不可能であるという点に於いて、絶望的なほどに深い溝がある。
空に向かって、問うてみても、すがってみても、懺悔してみても何も、無い。
そこには自意識があるだけで、その自意識すらいつか他者に忘れられる。


人は生き、大事な人を亡くし、楽しみ、故人を忘れ、そして自らも死に、世界に忘れられる。

●生きるという事の、死ぬという事の本質が、「忘れる」という事であるなら、
僕は、その「存在の耐えられない軽さ」を直視できない。

5件のコメント

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