らせん階段

今日は、大学一年の時の友人に邂逅した。
彼は、二年次に大学編入試験を受けて、今はマスコミ業界を目指しているとのこと。ゆくゆくは作家になることを目指しているとのこと。
本当に偶然出遭った為、びっくりしたが、しばし久々の議論に花を咲かせた。
今日の試験の課題が「殺人を正当化できない理由」だったため、ひととおりの人生、生物、倫理の話題を話した後に、ある一言を言われた。
いや、しかしやられた。
いい得て妙、とはこのことだ。

お前はね、死なないよ。お前はね、死を見詰め、死を考えることによって確実に〔生きよう〕としている

と、言われた。
なるほど。
気づいていなかった。
完全な盲点だった。
自然選択説をを振りかざして、ニヒリズムを気取ってきたが結局のところ俺は完全に生きることに完全に『執着』していたのだ。
つまり、いいたいことはこうだ。
俺は、なんだかんだ言って、「生は空しい」とか「答えはないんだ」みたいな厭世的なことをさんざ言ってきたが、俺が書物を貪り読んだり、議論に耽溺するということは、そのなかから導き出されるはずの「答え」を捜し求めてもがき苦しんでいたにすぎない。
つまり誰よりも「生」に貪欲であり、「生」に執着していたのだ。その意味の所在を信じ、何か奇跡と美を無意識的に捜し求めていた過程だったのだ。
彼のいうとおり、こんなことじゃ、俺は死ねないだろう。
死を望んでいないにしろ、死ぬなどということものたまえなくなるであろう。
糞。
なんて、中途半端なんだ。
ほんと自分自身の生の半端さに嫌気がさす。
生命の奔流に飲み込まれていく中で、どうしても乗り越えなければならない壁があると思った。
彼はこういった
「俺が死ぬときに満足して、死ねたらいいや」と。
俺の相対主義と、唯物論と、唯識論が「死の哲学」だとするならば、彼のモチベーションは「生の哲学」であると思った。
生を見据え、生を真っ当するか。
死を察し、生を達観したところになにか意味を見出そうとするのか

その答えもすべて、主観による、選択のなすべきことである。
彼の選択も、俺の選択もある意味では正しいのであろう。
俺は何をしたいのか。
そのことを考える良いきっかけとなった。
意義深く死ねる時があれば、死ねる人間であればいいと思った。
ありたいと思った。
やっぱり、俺は中途半端には行きたくない。
それは、彼の意図の反するところではあるし、情熱家の彼の事であるので、反発にあいそうではあるが。

死を模索することは、生に執着することなのか。
この逆説は、しばらく俺の中でひとつの大きいテーマとなりそうである。

2件のコメント

  1. 俺は、俺らぐらいの世代で深く悩んだり考えたりしない奴は糞だと思う。思考を止めて全てをなあなあにして、へらへらしてんのは本当に楽だけど、それじゃああんまり悲しいだろう、人として。
    ぐるぐる同じところを廻って何とかひねり出した答えっていうのは、すでにおまえの財産だ。
    いろんなしがらみや、限界っていうのを一回あきらめるなり、受け入れるなりして前に進んでもいいんじゃないかと俺は思う。
    お前が思ってるほど世の中糞じゃないかもよ。
    今日も空は蒼いし。

  2. おおつ!
    やくそくどおり見てくれたんだね(^o^)丿
    サンクス!
    さて、お前と話したことを
    「結局、俺は遺伝子の鎖に縛られてその範疇で哀れに踊っていただけのピエロだ」
    とも俺のことを表現できたわけだけれどもしなかったことにはやはりお前の影響があると思う。
    ペシミスティックに浸ることは青春の特権であると同時に、それだけではなにをも生まず、結局はお前のゆうとうり同じところをぐるぐると回っていることに過ぎないということに気づいたから。
    俺は、世界の多数を反定立として捉えることによって、定立としての美を、生を追求していたんだね。
    当たり前だが、大発見。
    21世紀の今に生きて、こんな議論をできたことだけで、俺は奇貨であると思う。
    さんくす!
    今日は空が蒼かったなあ。
    どっこい生きてる都会の狸。

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