幽玄

ロックとは概念であり、概念とはたゆたうものだ。
有為転変、人間が作り出した全ての価値観は変遷を重ねてきた。美や醜、正邪の概念は、常に文明に規定され、又逆に文明を規定した。
ロック、その解釈は多岐に渡る。
例えば、ジョンレノンのロックは平和への飽くなき叫びだ。パブリックエネミーのロックは自由への闘争であり、レディオヘットのロックとは搾取構造への宣戦布告であった。
星の数程存在する音楽家それぞれに異なるロック観が存在し、そしてそれらの潮流の中には「真なる悩み」という源泉が存在する。
つまり懊悩と憐憫という土壌があって始めてロックという花が開くのである。
さて、「この世の不幸は 全ての不安 この世の不幸は 感情操作と嘘笑いで みんなが夢中になって暮らしていれば みんなが夢中になって暮らしていれば 別に何でもいいのさ別に何でもいいのさ」佐藤伸治はそう謳う。
ここ、日本には闘争もリアルな死もない。愛と友情しか謳えない精神のホルマリン漬け的な音楽には、退屈の萌芽が芽生える。
フィッシュマンズはその退屈を鳴らしている。日本という戦争の無い国家、その豊かな国から生まれたロックは、心地の良いニヒリズムを孕む。生物としての闘争本能を持ちながら、平和を憎めない。そんな良心の疚しさを、日本人特有の感性「空」の精神でまろやかに修めるのである。
「動」のロックがあるならば、フィッシュマンズのロックは、「静」である。
これが、最早この世にはいない佐藤伸治の歌声がこんなにも僕ら日本人の心に響く所以なのであろう。
「意味と本質はどこかの背後にあるのではなく、その中に一切の物の中にあるんだ」そう思わせてくれる日本人的な何かが、フィッシュマンズの鳴らすロックには存在する。

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