いきるいみについて

――「何故に脳の分泌物たる思想が、物質の属性たる重力よりも不思議さに満ちているというのか。それは我々の傲慢。それは我々のわれわれに対する自己愛に過ぎない。」

と、ダーウィンが『種の起源』で述べてから、人類は神の加護を享けた特別な存在ではないだけではなく、サルの一種にしか過ぎない事が暴かれた。そして思想は崇高さを失い、ただの物質のもとに帰属せしめられた。

J・フロイトが言うように人類は科学によって

「素朴な自己愛に加えた巨大な暴虐」

に耐えなければならなくなったのである。
と、すると「善」や「悪」も脳の分泌物にしか過ぎないこととなる。

人を殺めてはいけないという形而上学的な意味など存在しないこととなる。
確かに、唯物的史観からみるとそのとおりである。愛は遺伝子を運ぶ装置にしかすぎず、超越者など存在せず、倫理は文字にしかすぎない。

ニーチェが言った様にこの世には形而上学的な価値は存在しないのかも知れない。

普通の人間なら(僕を含めて)ここで思考を止める。虚無ほど怖いものはないからだ。

日常生活を集団の中で些細な喜びと快楽を追い求めることに忙殺されて生きる人間にとってすべての生きる価値を否定される、これほど安寧を脅かされる事は無いからだ。

…結論は、ない。多分僕が一生をかけて考えていくテーマだから。

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