遊んであげるのではない
遊んでもらってるのである。
かけがえのない時間を、子供から頂いているのである。
子供が親を必要とし、親がそれを提供できる期間は、思いの外少ない。
そうした時間はたかだか、10年ちょいくらいだろう。
70年の人生の、ほんの数分の1の期間。
「わがままいう子供と遊んであげてる」マインドではもったいない。いや、人生の損失だ。
「天使に遊んでもらってる」のだ。
「二度と戻らない時の中で」だ。
今を噛み締めよう。自分を戒めよう。
遊んでもらってるのである。
かけがえのない時間を、子供から頂いているのである。
子供が親を必要とし、親がそれを提供できる期間は、思いの外少ない。
そうした時間はたかだか、10年ちょいくらいだろう。
70年の人生の、ほんの数分の1の期間。
「わがままいう子供と遊んであげてる」マインドではもったいない。いや、人生の損失だ。
「天使に遊んでもらってる」のだ。
「二度と戻らない時の中で」だ。
今を噛み締めよう。自分を戒めよう。
連休初日に風邪をひいた。
何もする気が起きなかった。
風邪は治ったが、数日はやる気がでなかった。
挑戦する気力が尽きたかなあ。参ってるのなかあ。病気なのかなあ。
などと心配した翌日、やる気がでてきた。
将来への計画、億劫で先延ばししていたタスクの処理、暗くなるような連絡へのアクション。そんなすべてをやるかという気になった。
娘と公園に行き、寿司を食って、スーパーで買い物をし、ご飯を食べ、計画を練って、今これを書いている。
身体と心はリンクしている。
心が良くても身体がだめなら、すべてが霞む。
身体を侮るな。
身体を軽視するな。
我が身を振り返り、戒めるのである。
旅行中、幸せだなと感じるポイントが変わった。
昔はビールを飲み、太陽の光を浴びて音楽を聴いたとき、いい景色を見たとき、異国で苦難を乗り越えたとき、想像以上のうまい店を見つけたとき、旅先の人と触れ合ったとき。
今は子供と家族の笑顔を見たとき、成長を感じたとき、家族みんなで笑ったとき。
旅の目的と意義は人生の時々で変わる。
変わったことに気づけないで、以前の尺度で考えていると、損した気分になってしまう。
今、自分は何を幸せと感じていて、何に意味を見出しているのか。
それを認識して、理解して、腹落ちさせることが大切である。
ベッドサイドで娘が「もう大きくなりたくない」と言った。
僕は胸がキュっと締め付けられた。
立派に育っててほしいこと、今が永遠であってほしいこと、人は老いて死ぬこと、子は親の手から離れていくこと、娘のその感情はとても尊いこと。
これらが一緒くたになって、なんと言ったらよいかわからなくなって、僕たちは優しい嘘をついた。
「ずっとずっと赤ちゃんでいいよ。ずっとみんな一緒だよ」
そう言って抱きしめた。
「人生、もう折返し地点だね」と、夫婦で話す。
60で死んだ母。
人生は有限。
いつか来るその時に、今までの選択に悔いがないと思えるように。
日々をどう過ごし何を選択するか。
風呂場で肉の間に溜まったホコリやアカを出してやる作業。
これが愛おしいんです。
たまに気まぐれで全力の笑顔。
これが堪らないんです。
新生児、一瞬しかない、この今をできるだけこの目に焼き付けるんです。
産まれたと言われると急にリアリティが湧いてくるのなんなんだろう。
お腹の中から出てきたその瞬間に存在が立ち上がってきたようだ。
今は早く抱き上げたい。
抱き上げて存在を確かめたい。
次女が産まれた。
ひとつの命が始まった。
俺が死ぬまで愛そう。
母がそうしてくれたように。
今、妻が手術室に入ったらしい。
新型コロナウィルスのため、側で付き添うことも、手術室の前で待ってることすらできない。
家で果報を待つ。
同じ時間、今このときにも妻の腹は切られようとしてるのに。
同じ時間、違う場所で妻が苦しんでいる。
何もできないのがもどかしい。
娘、寝る前だけ泣いた。
耐えて耐えて耐えた。
でも堪えきれなかった様子。
一滴づつ垂らした水が、コップの縁から溢れるような、そんな泣き方。
とても美しいと思った。
愛しいと思った。