同じ辛さは三ヶ月持たない

同じ辛さは、三ヶ月持たない。

逆を返せば、三ヶ月我慢すれば、どんな辛さにも慣れると言うことだ。

世界がひっくり返ったコロナ騒ぎが今はどうだ?
家で働くのに慣れた。伝染病と付き合いながら外出するのにも慣れた。

転職の心配はどうだった?
プレッシャーによるストレス、新しい環境への不安は思いの外すぐ慣れた。

子育ては?
辛い時期はあった。ギリギリの時期はたしかにあったけど、なんとか夫婦で乗り切れた。今は凪いだ海のように幸せだ。この経験があれば、きっとこれからも乗り切れる。

人間関係のトラブルは?
軽いものから裁判沙汰までいろいろあったが、思いの外すぐに慣れた。日常生活に戻った。

ストレスは高所トレーニングのようなものだ。 酸素が薄いのは最初はしんどい。
息が続かないのはこの世の終わりと思うほどにきつい。 でもきっと、慣れてしまえばそこで暮らせるようになる。 ぐっすり眠れるようになる。

もし今後、怒り、悲しみ、悩みを感じたら、三ヶ月以内にそれらの問題は去ると認識しよう。 俯瞰的にそれらの感情を観察しよう。 今は辛いかもしれないが、いづれそれは去るか慣れる。

なんでそれがわかるって?
今まで、自分が歩んできた道が証明しているからだ。 自分が1番それをよくわかっているからだ。

ブログ移転のお知らせ

ご訪問、ありがとうございます!
この度JUGEMブログから、オリジナルブログに引っ越すことにしました。

■新URL
https://curlcord.net/

大学時代2003年から書きはじめたので、足掛け17年になります。

その間、モラトリアムに居た一人の青年は、就職し、母と死別し、結婚し、家族も増えました。

そんな折、このブログは遺書みたいなもんなのかな、と思うようになりました。

いつか自分が死んだ時、私という一人の人間がどういうようなことを考えて、生き、そして死んだのか、知りたいと思ってくれた殊勝な方がいたならば、このブログをエッセイ読むように読んでもらいたいなと。

であるならば、もっと力を入れてもいいんじゃないかと思うに至り、無料ブログから引っ越すことにした次第です。

これからも、流れれゆく感情、人生における大切な気付き、そして大事な人に遺したい言葉。
そんなものを綴っていきたいと思います。

なんか今にも死んじゃうみたいな書き方ですが、まだまだ私の人生は続きます。
死を傍らに、忘れずに先に進もうと思ってます。

これからも、どうぞよろしくお願い致します。

嫁に泣かれた話

たわないない会話の中で「俺は早死だと思うから、おじいさんになって死んだら後はよろしくねwww」みたいな話題?はカップルでも夫婦でもあることだと思う。

この間娘が産まれて数週間くらいのこと。

そんなようなことを話したら、嫁がポロポロと泣き出した。

曰く

「貴方が死んだら私もすぐ死ぬ」

「つらすぎて後を追う」

「あなたのいない世界に意味はない」

と。

「死んだら俺はもう思考しないんだし意識ないんだからそんなことはやめてくれ」

「第一子供がいるから寂しくないだろうし、子供も哀しむよ。もし万が一意識があったら俺も哀しむよ。」

と俺。

いや、それとこれとは別なのよ、と嫁。

まぁ、そんなこんなをとりとめもなく、お互いに感情的になって話した。

死を思ってかなりセンチになったし、俺もジーンとした。

「後を追う」

その言葉が、その時その瞬間の気分だとしても、将来それが実行されないにしても(全然してほしくないのだけれど)、実はすぐ他の人と幸せになるとしても、そう言ってくれた事は、とてもとても嬉しかった。

いつか終わり、今も虚無に向かっている人生だけど、最後は一人になってしまう人生だけど、その路の途中で、ここまで言ってくれる人と出会えてよかった。

結婚したときのブログで「いつか死によって別れるのが怖い」と書いた。

大事なものがますます大事になって、ますます怖くなったけど、救いも増えたような気がする。

夫婦でポロポロ泣いた夜は、瞬間かもしれないけど無くならない。

夫婦でいい人生を送ろう。

そして死ぬその日まであの日のことを覚えておこうと、思った。

「理想の素晴らしい今ではない何か」と「今の自分」を比べる無意味さについて。

あいまいにしか思い出せない単純化された過去の自分を回顧して懐かしむ。
本やメディアで啓発された立派な自己像を夢見てみる。
人の言う、人の常識に翻弄される。
それら、「今の自分じゃない何か」を今の自分に当てはめて、その【差分】を課題と思ってみたところで無駄だ。
なぜならそもそも自分自身ですら把握出来ない程、
・複雑で
・多様で
・雑多としていて
・毎日変化する
・複合的で
・理解不能な
「今の自分」と、
・一面的で
・主観的で
・わかりやすくて
・普遍的で
・単一的で
・理解しやすい言葉でできた
誰かが啓蒙のために創った「概念」や、自分が思い出せるだけの今眼前にないペラペラの「過去の自己イメージ」や、人が生成する主観的な「普通の常識」などといったものとでは、そもそも、比較の指標が違うのだから、正確な比較などできるわけもないからだ。
∞である自分と、何かしらの1とか8とか33の別の指標を比較してみたところで、なんの意味があるだろう。
だが、それでも比較をしたならば、
永久に主観的な(あるいは客観的な)差分は埋まらず、自己像やアイデンティティは欠損したままとなる。
死ぬまで不足感や欠乏感は拭えない。
進歩進化進捗。
過去はよりよかった。
未来はよりよいものだ。
他人はもっとすごい、素晴らしい、常識的だ。
そんな進歩進化進捗を根拠とした意味と根拠の無い比較、否定の因習に囚われていたら、今の自分は誰が認めるのだろう。
誰が愛するのだろう。
いつ、【そこ】に到達するのだろう。
だから思う。
複雑で、変化し、捉えようのない、あるがままで美しいこの世界を、自分を、他者を、できるだけそのままで愛そうと。
 

林の中の象のように

人からの評価に依存するな。
自分がやった仕事“そのもの”を自らで正当に評価せよ。
自分を評価しない人、しなかった人を逆恨みするな。それは逆に復讐をして腹いせを晴らしているだけのことだ。
いたずらに悲観するな。それはかわいそうな自分を慰めてるだけだ。
思いを込めて精一杯やった仕事なら、その別離は人のせいでも、自分のせいでもない。
それを糧にし、切り替えろ、精一杯やれ、先に進め。

「孤独に歩め。悪をなさず。求めるところは少なく。林の中の象のように。」

北極星

運命は時として、あがらいがたい力で思いもよらない方向に自分を連れて行く。

そういう時、事実は慄然と目の前に立ち、僕の意志の力をたやすくねじ曲げる。

抵抗は出来ない。踏ん張ってもどうにもならない。
僕は右に、上にと翻弄されるしかない。
洪水の中の一筋の藁のように。

社会、法律、友達、それら目線。病気、事故、不幸。その洪水。

だが、ただ黙って流され、翻弄されているだけじゃない。
選択するんだ。

運命のうねりのなかで、意思を持って舵をきるんだ。

横滑りしながらも、転倒しながらも、それでもあるべき方向を見失ってはいけない。

それを見るんだ。

それは、胸の中にある一番大事なものだ。

それは、
ほっとするものだ。
愛しいものだ。
守りたいものだ。

それを、忘れなければ僕たちは運命に負けることはない。
それを忘れたら、闇の中で、ただ、自分しかいない。
忘れてはいけない。もらったもの、与えるもの。

溺れる藁には無い、意思、選択。

何が起きても、どんな困難でも、その嵐の中で
胸にあるものを忘れずに思い出そう。

思い出そう。

ゾンビ映画考

1934年に世界最初のゾンビ映画「ホワイトゾンビ」が銀幕に登場して以降、ゾンビカルチャーはまるでスクリーンの中のゾンビように、同時多発的に世界中に広がり、増殖の一途を辿っている。

ゾンビ映画はゾンビ情報を欲するゾンビのようなゾンビファンのニーズに下支えされることで、小規模ながらも頑強なマーケットが世界中で形成され、それにゾンビ映画を愛する作り手たちが呼応することで、結果星の数程のゾンビ映画が作られる。

ネズミゾンビからトマトゾンビ、はたまたおっぱいゾンビから、ブラッド・ピット主演のゾンビ映画「ワールドウォーZ」までに至る、一大文化圏をなしている。

この文化には、他の文化にない特異な点が一つある。

共通して言えるこは、その根底に流れるすべての源泉、原点にして到達点が“一つ”である、ということだ。

それはだた一人の監督の作品だ。

George Andrew Romero。

彼の作品はすべてゾンビという「マイノリティ」とマジョリティの対立をテーマとしている。

始りの瞬間はたった一人で、ただ空腹で、人を噛むという目的にだけに、世界でただ一人で生きる(死ぬ)ゾンビ。
正気から、法律から、さらには生物という概念からすら外れた社会の外側にいるマイノリティ。
どちらかというとその存在は、社会秩序という暴力と退治すると弱々しくすらある。

だが彼らは、人を噛み、増えて増えていく。
その過程のある特異点において数的優位(マジョリティ)に立ち、優位がひっくり返る。
圧倒的数量で人々を押し流し押しつぶす。

人々は法律、経済、教育、道徳の秩序が崩壊し、自分が今まで当たり前のように与えられたきた事全てをいやおうなく捨て、
自らの頭と手で、それらを選択し、決断して生きていかなければないことを知る。

自分を規定し、守り、依存していた今までの秩序の崩壊を目の前にして、人々は自らと対峙し、理性とエゴそして渦巻く欲望と戦い、他者と対峙して愛や暴力と向き合うこととなる。

一方でゾンビ側は簡単だ。
彼らはただ食べたいだけ。

ただ、腹が減っているだけなのだ。

ここでふと、気づく視聴者は我に帰る。

ゾンビと私の違いは?

他の生き物を殺し、
余ったものを捨て、
他人に無関心で、
貧しいものに分け合わず、
隣人を愛さず、
殺し、殺され、金欲や名誉欲や色欲、秩序を盲目的に信じたい欲に溺れ、
不目的で、
道徳のない存在は誰だ?
それは人間だ。

ゾンビはただ、食べたいだけ。
その動機は人間と変わらない。
対象が人間なだけで、よっぽと人間のほうが疚しい。

ロメロの映画で描かれるのはそんな徹底した「平等」だ。

動物の肉を食う人。
人を喰う肉。

暴力を振るう人間。
人を喰う人間。

人を見捨てる人間。
見捨てることすら捨てた人間。

それでも愛を選択する人間。
愛を捨て、帝国を築く人間。

愛に死ぬ人間。
信仰に死ぬ人間。
欲で生きる人間。

助かるオタク・マイノリティ。
死ぬリア充・マジョリティ。

ソンビ映画は、秩序や権威崩壊後の世界を浮き彫りにし、各々の道徳に迫る。
そのダイナミズムがゾンビ映画の一番の魅力であり、カタルシスでもある。

そのゾンビ映画は、ロメロが第一作「ナイト・オブ・ザ・リビング・デッド」を完成した1968年にすでに「完成」している。
すでに完成しているゾンビ映画を超克しようとする試みがゾンビ映画なのだ。

つまりゾンビ映画とは、その映画のルーツがそれ自身で持つロメロへの規定や拘束を条件とし、マイノリティを描く過程で視聴者にその立ち位置を迫る一大様式美がゾンビ映画であり、ゾンビ映画群なのだ。

事実、そしてその星の数ほど作られるゾンビ映画の殆どが、ロメロを崇拝し、ロメロを到達点とし、ロメロを目指して制作されている。

人の死、復活、食、恐れ、恐怖。
そのそれぞれに深く密接し、分かつことのできないテーマに根ざすゾンビ映画。

これらは我々が知的生命体である限り、進化していく限り、進化が厭世を生む限り、マイノリティがある限り、生命に限りがある限り、永遠に増殖していく。
ご承知の通り、それらは絶対に無くならない。

ゾンビ映画は民衆に迫るだろう。

君にとって生は?
正しいとは?

それこそが、ゾンビを作った神、ロメロが提示した問いであり、
人々はある時、ゾンビのように世界を“侵食”した、彼の真の意思に気づくのだろう。

僕が旅に出る理由2013

旅は、全く確証の無い未来に我が身を投げる、人生において数少ない行為である。

投げる事そのものは計画ができても、投げた後何がが起こるかについては、何一つ予見する事はできない。
この足が一本を進むその瞬間瞬間に、新しい景色が開け、それにより新しい経験をし、新しい人と出会い、新しい想いを抱く。

つまり我々は背後の「全て」と眼前の「ゼロ」に挟まれた瞬間的な存在であり、そこには偶然もなければ可能性もない。
村上春樹『羊をめぐる冒険』

ゼロとすべての間にある行為が旅だ。

<社会>:コミュニケーション可能なものの全体
<世界>:ありとあらゆるものの全体
宮台真司『14歳からの社会学』

<社会>(=日常)じゃなく、<世界>に直接触れる行為、それが旅だ。

なので、その旅の瞬間瞬間に相対としての<いつもと違う生>が、溢れる。

良い事だけじゃない。
アクシデントや、悪い事や、損失、その全てに自分の判断、生が絡みつき、我が生と一体化する。

坂道を落ちる雪玉のように、(善悪に関わりなく)経験はすればするほど生にまとわりつき、経験を、人間を深くする。

深くなった生は、今の生(日常=社会)にも影響を及ぼす。

旅の間に深くなった生は否応なく、現実の日常の自分の生(と社会との関わり方)を比較、検討、対策、対応することを要請する。

その事で自分の日常へと、その足りたい部分、欠落している部分をフィードバックする事ができる。

そしてその欠落感と反省の経験が次の旅を渇望する事につながり、次の「放り投げ」へと連鎖していくのだ。

一人なら一人の、二人なら二人の。

未知への冒険。そして、その経験。
それは何にも変え難い、自分だけの、そして二人だけのものである。

在り方

人は、いや人の生き方は、

世界の認識の善悪に出る、
話題とその選び方に出る、
その言葉の選び方の節々に出る、
そのふるまいの品にに出る、
全ての行動の方向性に出る、
身なりのアピール性に出る、
身体の姿勢に出る、
細かい表情の表し方に出る、
刻まれた顔の皺に出る。
 
結果、人との関わり方に出るし、
人の反応に出るし、
仕事に出るし、
生き方に出る。
死の看取り方にも出るし、
我が身の死に方にも出る。
 
全てはありのままで、裸のままで自分の前にある。
ただ、見るだけで良い。
やるだけで、良い。

肯定

死は乗り越える事でも、
忘れる事でも、
逃げる事でもない。

常にそこにあって、生の輪郭を際立たせるものだ。

あなたがそばに居てくれたのは、とてもありがたい事で。
ここから居なくなったのは、とても悲しい事で。

君がここに居るのは、とても幸せな事で。
そして二人が幸せなのは、とても嬉しい事だ。