北極星

運命は時として、あがらいがたい力で思いもよらない方向に自分を連れて行く。

そういう時、事実は慄然と目の前に立ち、僕の意志の力をたやすくねじ曲げる。

抵抗は出来ない。踏ん張ってもどうにもならない。
僕は右に、上にと翻弄されるしかない。
洪水の中の一筋の藁のように。

社会、法律、友達、それら目線。病気、事故、不幸。その洪水。

だが、ただ黙って流され、翻弄されているだけじゃない。
選択するんだ。

運命のうねりのなかで、意思を持って舵をきるんだ。

横滑りしながらも、転倒しながらも、それでもあるべき方向を見失ってはいけない。

それを見るんだ。

それは、胸の中にある一番大事なものだ。

それは、
ほっとするものだ。
愛しいものだ。
守りたいものだ。

それを、忘れなければ僕たちは運命に負けることはない。
それを忘れたら、闇の中で、ただ、自分しかいない。
忘れてはいけない。もらったもの、与えるもの。

溺れる藁には無い、意思、選択。

何が起きても、どんな困難でも、その嵐の中で
胸にあるものを忘れずに思い出そう。

思い出そう。

ゾンビ映画考

1934年に世界最初のゾンビ映画「ホワイトゾンビ」が銀幕に登場して以降、ゾンビカルチャーはまるでスクリーンの中のゾンビように、同時多発的に世界中に広がり、増殖の一途を辿っている。

ゾンビ映画はゾンビ情報を欲するゾンビのようなゾンビファンのニーズに下支えされることで、小規模ながらも頑強なマーケットが世界中で形成され、それにゾンビ映画を愛する作り手たちが呼応することで、結果星の数程のゾンビ映画が作られる。

ネズミゾンビからトマトゾンビ、はたまたおっぱいゾンビから、ブラッド・ピット主演のゾンビ映画「ワールドウォーZ」までに至る、一大文化圏をなしている。

この文化には、他の文化にない特異な点が一つある。

共通して言えるこは、その根底に流れるすべての源泉、原点にして到達点が“一つ”である、ということだ。

それはだた一人の監督の作品だ。

George Andrew Romero。

彼の作品はすべてゾンビという「マイノリティ」とマジョリティの対立をテーマとしている。

始りの瞬間はたった一人で、ただ空腹で、人を噛むという目的にだけに、世界でただ一人で生きる(死ぬ)ゾンビ。
正気から、法律から、さらには生物という概念からすら外れた社会の外側にいるマイノリティ。
どちらかというとその存在は、社会秩序という暴力と退治すると弱々しくすらある。

だが彼らは、人を噛み、増えて増えていく。
その過程のある特異点において数的優位(マジョリティ)に立ち、優位がひっくり返る。
圧倒的数量で人々を押し流し押しつぶす。

人々は法律、経済、教育、道徳の秩序が崩壊し、自分が今まで当たり前のように与えられたきた事全てをいやおうなく捨て、
自らの頭と手で、それらを選択し、決断して生きていかなければないことを知る。

自分を規定し、守り、依存していた今までの秩序の崩壊を目の前にして、人々は自らと対峙し、理性とエゴそして渦巻く欲望と戦い、他者と対峙して愛や暴力と向き合うこととなる。

一方でゾンビ側は簡単だ。
彼らはただ食べたいだけ。

ただ、腹が減っているだけなのだ。

ここでふと、気づく視聴者は我に帰る。

ゾンビと私の違いは?

他の生き物を殺し、
余ったものを捨て、
他人に無関心で、
貧しいものに分け合わず、
隣人を愛さず、
殺し、殺され、金欲や名誉欲や色欲、秩序を盲目的に信じたい欲に溺れ、
不目的で、
道徳のない存在は誰だ?
それは人間だ。

ゾンビはただ、食べたいだけ。
その動機は人間と変わらない。
対象が人間なだけで、よっぽと人間のほうが疚しい。

ロメロの映画で描かれるのはそんな徹底した「平等」だ。

動物の肉を食う人。
人を喰う肉。

暴力を振るう人間。
人を喰う人間。

人を見捨てる人間。
見捨てることすら捨てた人間。

それでも愛を選択する人間。
愛を捨て、帝国を築く人間。

愛に死ぬ人間。
信仰に死ぬ人間。
欲で生きる人間。

助かるオタク・マイノリティ。
死ぬリア充・マジョリティ。

ソンビ映画は、秩序や権威崩壊後の世界を浮き彫りにし、各々の道徳に迫る。
そのダイナミズムがゾンビ映画の一番の魅力であり、カタルシスでもある。

そのゾンビ映画は、ロメロが第一作「ナイト・オブ・ザ・リビング・デッド」を完成した1968年にすでに「完成」している。
すでに完成しているゾンビ映画を超克しようとする試みがゾンビ映画なのだ。

つまりゾンビ映画とは、その映画のルーツがそれ自身で持つロメロへの規定や拘束を条件とし、マイノリティを描く過程で視聴者にその立ち位置を迫る一大様式美がゾンビ映画であり、ゾンビ映画群なのだ。

事実、そしてその星の数ほど作られるゾンビ映画の殆どが、ロメロを崇拝し、ロメロを到達点とし、ロメロを目指して制作されている。

人の死、復活、食、恐れ、恐怖。
そのそれぞれに深く密接し、分かつことのできないテーマに根ざすゾンビ映画。

これらは我々が知的生命体である限り、進化していく限り、進化が厭世を生む限り、マイノリティがある限り、生命に限りがある限り、永遠に増殖していく。
ご承知の通り、それらは絶対に無くならない。

ゾンビ映画は民衆に迫るだろう。

君にとって生は?
正しいとは?

それこそが、ゾンビを作った神、ロメロが提示した問いであり、
人々はある時、ゾンビのように世界を“侵食”した、彼の真の意思に気づくのだろう。

僕が旅に出る理由2013

旅は、全く確証の無い未来に我が身を投げる、人生において数少ない行為である。

投げる事そのものは計画ができても、投げた後何がが起こるかについては、何一つ予見する事はできない。
この足が一本を進むその瞬間瞬間に、新しい景色が開け、それにより新しい経験をし、新しい人と出会い、新しい想いを抱く。

つまり我々は背後の「全て」と眼前の「ゼロ」に挟まれた瞬間的な存在であり、そこには偶然もなければ可能性もない。
村上春樹『羊をめぐる冒険』

ゼロとすべての間にある行為が旅だ。

<社会>:コミュニケーション可能なものの全体
<世界>:ありとあらゆるものの全体
宮台真司『14歳からの社会学』

<社会>(=日常)じゃなく、<世界>に直接触れる行為、それが旅だ。

なので、その旅の瞬間瞬間に相対としての<いつもと違う生>が、溢れる。

良い事だけじゃない。
アクシデントや、悪い事や、損失、その全てに自分の判断、生が絡みつき、我が生と一体化する。

坂道を落ちる雪玉のように、(善悪に関わりなく)経験はすればするほど生にまとわりつき、経験を、人間を深くする。

深くなった生は、今の生(日常=社会)にも影響を及ぼす。

旅の間に深くなった生は否応なく、現実の日常の自分の生(と社会との関わり方)を比較、検討、対策、対応することを要請する。

その事で自分の日常へと、その足りたい部分、欠落している部分をフィードバックする事ができる。

そしてその欠落感と反省の経験が次の旅を渇望する事につながり、次の「放り投げ」へと連鎖していくのだ。

一人なら一人の、二人なら二人の。

未知への冒険。そして、その経験。
それは何にも変え難い、自分だけの、そして二人だけのものである。

在り方

人は、いや人の生き方は、

世界の認識の善悪に出る、
話題とその選び方に出る、
その言葉の選び方の節々に出る、
そのふるまいの品にに出る、
全ての行動の方向性に出る、
身なりのアピール性に出る、
身体の姿勢に出る、
細かい表情の表し方に出る、
刻まれた顔の皺に出る。
 
結果、人との関わり方に出るし、
人の反応に出るし、
仕事に出るし、
生き方に出る。
死の看取り方にも出るし、
我が身の死に方にも出る。
 
全てはありのままで、裸のままで自分の前にある。
ただ、見るだけで良い。
やるだけで、良い。

肯定

死は乗り越える事でも、
忘れる事でも、
逃げる事でもない。

常にそこにあって、生の輪郭を際立たせるものだ。

あなたがそばに居てくれたのは、とてもありがたい事で。
ここから居なくなったのは、とても悲しい事で。

君がここに居るのは、とても幸せな事で。
そして二人が幸せなのは、とても嬉しい事だ。

絶対的金銭感

個人の視点により、収入が100万円の時点での10万円と、1000万円の時点での10万円の価値が違うように、
金の価値というものはその主観によって相対的に持つ価値を変える。

洋服に使う1,000円の差は大した問題に感じないが、2,000円のランチと1,000円のランチでは大きな差を感じる、といった具合にだ。

例えばこういう行為には矛盾がある。

1.近所に100g150円で旨い牛肉を売っているのに、100g 90円の牛肉を買いにとなり町まで行く

⇒ 500g買ったとしても、総額は750円と450円で300円の差。

給与全体に対して、約0.1%のインパクトしかないものに、多くの思考と労力を割き、劣悪な海外製商品を手にする。

2.1,000円の本を買うのを躊躇し、300円の読みたくもない古本を買う。その一方で6,000円の「結果が見えている」つきあい飲みに行く

⇒ 300円と比較すると1,000円の商品が高く見え、結局「安物買いの銭失い」になる。

なのに、「つきあい呑み」には6,000円以上をだらだら使う。

このコストを削減すると、6冊も同じレベルの本を購入することができる。しかもその時間を生産的活動に使うことができる

3. 毎日500円のランチを食べて、30円の納豆に、20円の卵、60円の飲み物をのみ(2食計220円)で計720円

⇒ 健康を破壊している。長いスパンでみると、治療費により高額のコストが掛かることも考えられる…。

上記のように目の前に何らかの数字が出されることによって、それが判断基準(アンカー)となり、その後の判断を左右することを心理学・経済学の用語で”アンカリング効果”と言う。合理的な絶対的評価ではなく、最初の数字やモノを基準とした相対的評価になってしまうということを言う。

その都度は合理的であるようでいて、全体的にみると全然合理的でない自分。
できるだけ客観的に自分を見、限りあるコストと時間を効率的で有意義な形で振り分けないといけない。

下記に極私的なメモとして、自分なりの支出のルールを作りたい。

【金銭的価値における極私的メモ】

■10円単位
・むしろ安いものより、よいものを買うという指向性を働かせる事で“商品体験の経験”を得るほうがよい

■100円単位
・単発の数100円の支出で悩まない
・極端な手間を惜しまない。そうしたことでワンランク上の良い物/おいしいものを買う。
・自分の時間を持つ

・だが、日に100円が毎日かかる、日割りの単位の出費は細かくチェックする
※日々の出費は単純に×30倍となる(例)300×30=15,000円
・月割数100円の単位の出費は年に1度見直す

■1,000円単位
・単価1,000円単位でも価値のあると思うものは悩まない
・5,000円単位の出費は価値のあるものにのみ支払う
※付き合い呑みには出来る限りいかない

■10,000円単位
・本当に価値があるものを見極め、それにのみ支払う

■50,000円単位
・長く(3年以上)使えるもの/人生の糧となるものにのみ支払う
・自己成長の糧になるものと判断した場合には惜しみなく投資する

以上、常時リニューアル/修正をして参考にする。

想い

自分にそれがあるように、
人には機嫌の良し悪しもあるし、
浮き沈みもあるし、
悪い感情もあるし、
良い感情もあるし、
論理的非合理も合理もある。
そんな事を私はどうしてわからないのだろう。
わかりあえないのだろう。
わかるのだろう。
わかった気になるのだろう。
わからないのだろう。

組織の外

驕ってはいけない。
決して、驕っては、いけない。
それが無償でも、微償でも。
許せ、認めろ。
それが当然だ。
何故なら私は、まだ「内」の殻から出てもいないのだから。
その覚悟すら無いのだから。

レゾンデートル

自らの安らぎや、心地良い事、楽しさや豊かさを、他者と享受する事。
又はそれらへの志向性を、愛と表現するならば。
そして、その中に存在する主体性をエゴイズムというならば、愛は愛だけで存在足りうるのだろうか。

思い通りにならない世界で。

『人生は、ままならないものである。』

それが、この旅の前後で学んだ事。

起こりうるあらゆる悪い事は起こりうるし、
楽観視は痛い目見るし、
信じても裏切られるし、
希望的観測は得てして叶わない。

期待は期待でしかない。
思いや希望なんて現実には何も影響を及ぼさない。

だから頭で分かる範囲で、理性を武器に計画を立てる。
そして身体が出来る事を行動として移した時に、始めて現実世界に少しだけ影響を及ぼす。

だがそれでも、それでも悪い事や不慮の事故は起こる。

根拠なく「進路が逸れるだろう」と希望していた台風は波照間島を直撃するし、
根拠なく治るんじゎないかと思って水没させたiPhoneは、治らなくて買い替えになるし、
そのiPhoneを買い替えた当日に、旅の残金を全部いれてた財布を置き引きあうし、
やっぱり財布は落とし物として届けられないし、
仕事は大人しく着実ににやろうと思ったら同僚から謎の脅迫を受けるし、
膝は治りにくい爆弾を抱えていることが判明する(最後の方旅に関係ないけど)。

人生にはイレギュラーな事や厄災が降り注ぎ、得てして思ったとおりにはならない。

明日家が燃えるかもしれない。
癌になるかもしれない。
目が見えなくなるかもしれない。
大切な人が刺されるかもしれない。
線路に落ちて死ぬかもしれない。

可能性が低いだけで、それが我が身に起こりうる可能性を誰もが持っている。
ロシアンルーレットの拳銃の引き金を毎日引いて、たまたま当たらなかっただけだ。

世界はままならない。
世界は、ゲームではない。
自分の期待通りになるほど甘くない。
予定調和は無い。
存在はハイデガー的世界内存在で<在る>事から絶対に抜ける事は出来ない。

肝に命じろ。
注意しろ。行動しろ。
世界は思い通りにならない。

ここで、上記論旨を反転。

逆に、ままならない世界は意図しない、想像を遥かに越えた素晴らしい一瞬を与えてくれる事もある。

それはまるで、
「その印象は非常に強くて、わたしがかつて生きていた瞬間が、現時点であるように思われた(失われた時を求めて/ゲーテ)」
のような。

卑近な考えはおろか、自分の抱えている悩み全てを吹き飛ばす圧倒的な現実。
接近し、体験する<今>。

誰もいないビーチ。

一人座す。
透き通る蒼。

なんという豊饒。
なんという横溢。

喉を通る、ぬるいビール。

自分とビールと音楽と自然のミニマル。
何時間も身を任す。

即席のドラムセットで奏でるリズム。

「異邦人」でムルソー圧倒的された<あの>太陽。
太陽!

豊かな死のような夕暮れ。

旅とは、ままならなくて予定調和とはいかない世界の無情/不条理の中に自分を投企し、その中で失望しもがきながら、<二度と戻らない>その場所で、<二度と繰り返さない>の<今>や<現在>を見つけるための装置なのかもしれない。

トルストイは言う。

「現在に対して注意深くあれ。我々は現在の中にのみ永遠を認識する」(文読む月日)

辻邦生は言う。

「<今>にこうして手で触ること-それが生きることに他ならない」(夏の光満ちて)

と。

僕はまた旅に出るだろう。
また傷つき、失望し、何かを得るだろう。

あれ?
それが生きるということそのものにほかならないような、そんな気がしてきた。のだ。