ゆらめきIN THE AIR
意味と本質はどこかの背後にあるのではなく、その中に一切の物の中にあるんだなあと。
意味と本質はどこかの背後にあるのではなく、その中に一切の物の中にあるんだなあと。
この世の不幸は すべての不安 この世の不幸は 感情操作と嘘笑いで
みんなが夢中になって暮らしていれば
みんなが夢中になって暮らしていれば
別に何でもいいのさ 別に何でもいいのさex)FISHMANS幸せ者
ほんとそのとうりだよ、佐藤伸治
人間なら誰でも何かしらの集団に属して生きていかなければなるまい。
かくゆう私も、学校・サークル・家族・親類・アルバイトets…様々な集団に所属してやっとのこと孤独をごまかしごまかし生きている臆病な人間のひとりである。
金欠に急かされて先日、アルバイトを始めたことはこのページを読んでくれている方ならご存知と思うが、最近、そのバックヤードでの彼らがしきりに話す、陰口についていくことが出来ない。
まあ、アルバイトを始めたばかりで、人の名前も知らない段階だし自分自身、仕事が出来るというわけではないので自然と彼らが話す陰口の乱舞を客観的に聞くこととなるのである。(俺も言われてんだろうなあなんて思いつつ)
冷静に、客観的に、彼らを見ていると実に彼らは嬉々として人の悪口を話し、人を陥れようとする。
しかし実際思い返してみると、いままで自分が所属してきた集団の中で話が一番盛り上がる時は、人の陰口を囁きあっていたときではないか?という疑念が湧き、彼らと同じように誰かに客観的に見られているそのときの自分を思い、ぞっとした。
たぶん僕はそれを止められないし、だからなおさらやめろなんで忠告をすることは出来ないだろう。
あともうひとつ気づいたこと。
人の悪口を言うような場合、ほとんどそれは本人の前ではない。
それは何故なのだろう?
この問いから派生したものが先日気づいたことである。陰口は、けっして本人に語られることはない。改善が求められる点、また改善の可能性がある人間でもそれはかわらない。
いいか悪いかの問題で言ったら、組織においては欠点や欠陥は改善されたほうが良いに決まっていることは至極明確な話であるが、それはけっして本人に語られることなく消化されていく。
解答はこうではないか?
――陰口とは対象の人間に対する不満や、自らのコンプレックスに対する反発の、共感・正解感を得るために他人と行う行為である。
ということは組織の中で陰口は、ストレスやコンプレックスのスケープゴートとしての機能を担っているのではないか?言うなればストレスの暴発、もしくはただの発散のための犠牲者である。むしろ対象者の欠点・欠陥つまり陰口の議題となる点は改善されてはならないのである。そうなると「生贄」がいなくなってしまうから。
陰口を言われる人間に忠告をすることなく問題を放置しておく事は、皆が無意識に組織の機能を効率的に運用するために行う行為だとしたら、先程の問いへの説明はつく。
なかよしだけでは退屈で人間は生きてはいけないのだろうか…
人間は複雑至極な生物である。これがすべての解答だとは言うことはもちろんできないが、この解答ももちろんひとつの人間の側面として存在していると、私は思う。
この構造にに気づいた時には人間存在の邪悪さというか救われない醜さにぞっとしたが、気づかないよりはましだとも思う。
なんたら成人やなんたら佛さんでもない俗人の俗人たる私は、悪魔の誘惑に屈服し、これからもクソのような笑顔で人の悪口を叩き続けるでことであろう。
しかしふと思う、それを0にするこたあない。
意識出来る程度に変なことを言うのを減らしていけばいいんだな。なんて無責任に思った。
――「何故に脳の分泌物たる思想が、物質の属性たる重力よりも不思議さに満ちているというのか。それは我々の傲慢。それは我々のわれわれに対する自己愛に過ぎない。」
と、ダーウィンが『種の起源』で述べてから、人類は神の加護を享けた特別な存在ではないだけではなく、サルの一種にしか過ぎない事が暴かれた。そして思想は崇高さを失い、ただの物質のもとに帰属せしめられた。
J・フロイトが言うように人類は科学によって
「素朴な自己愛に加えた巨大な暴虐」
に耐えなければならなくなったのである。
と、すると「善」や「悪」も脳の分泌物にしか過ぎないこととなる。
人を殺めてはいけないという形而上学的な意味など存在しないこととなる。
確かに、唯物的史観からみるとそのとおりである。愛は遺伝子を運ぶ装置にしかすぎず、超越者など存在せず、倫理は文字にしかすぎない。
ニーチェが言った様にこの世には形而上学的な価値は存在しないのかも知れない。
普通の人間なら(僕を含めて)ここで思考を止める。虚無ほど怖いものはないからだ。
日常生活を集団の中で些細な喜びと快楽を追い求めることに忙殺されて生きる人間にとってすべての生きる価値を否定される、これほど安寧を脅かされる事は無いからだ。
…結論は、ない。多分僕が一生をかけて考えていくテーマだから。
もし、一ヶ月の間、日本中で死亡者がいなかったら、日本はパニックになるだろう。
一日目はちっちゃい見出しでニコニコ。三日でも中吊りがニコニコ。
けど一週間を過ぎたあたりからみんな自分が心配になってくる。
三週間が過ぎるころメディアに祝福の文字は無いだろう。
それらはみな人口が溢れ出し食料が欠乏する未来を憂いて。
「死」は憎むべきなのに、「生」は祝福すべきものなのに。
多分僕らはいつも金で下卑たニュースを買って人の不幸を見て安心しているんだ。
「自分はこんなに安全だ」と。
だって人が死んだニュースなんて見る必要ないじゃないか。
怨嗟、嗟嘆、姦淫、多情、二心、据傲、顕示、姦通、放恣、怠惰。
およそ、考え付く限りの自己愛に満ちた、自己中心的な一方通行的な表現、それが落書きです。
それは教室の机にあり、公園の便所にあり、Webにあり、駅の伝言板にあったり、壁にスプレーで描いてあったりします。
それらメディアは、不特定多数の、不特定者に向け無責任に表現されます。
また、それらは極度に無常です。
無常な僕らを通り過ぎていくさらに無常である髪の毛や衣服と同じように、それら切実な自己表現は、汚れ、消され、踏みにじられる形で世の中から無へと帰属していきます。
生物は遺伝子が増えるのに一番都合のいいように最適な期間しか生存できないよう、テロメアという遺伝子によって、決定されているそうです。
「蝋燭が尽きたら寿命が終わる」という良くある話のようにそのテロメアが尽きたら寿命が終わるそうです。ナンセンスな例えですが。
人間個体にとってはそういった遺伝子の思惑どおりというか反してというか、永久に自己を存在させていたいわけで、頑張って恋愛、交尾、繁殖に励むわけです。
また別の手段として芸術や文学や音楽や権力や功績で永久に自己を残そうとする方法があります。
しかし、それらは大変だし才能も労力も必要とします。
ですが、さらに御手軽で、コストも労力もかからない自己保存の方法があります。
それが落書きです。
自己から離れて、自己が存在しない時間と空間に、自らの思想が知らない知らない誰かに理解されいる。と、落書きをして夢想するだけで、私達は不特定多数の真に繋がり合える仲間と一期一会をし、彼らの中に生き続けることができるのです。
この方法なら非常にお手軽で満足感がえられる上、責任も、自分に被害が及ぶこともありません。
しかしその代わり、それら切実な叫びも風で吹けば消えてしまうほどに無常という反面を持っています。
ですがみな、それを無意識に承知した上で書いているのです。
吹き消えてしまうとわかっていても表現を止めないこの無垢なひたむきさは、ニーチェが言うところの無垢な赤子であると例えても良いかも知れません。
瞬間だから、無常だから、禍々しいから、落書きはかえって美しいのです。
自己保存のエゴと、表現の忘却が一緒に在るというパラドックスが生々しい人間味をもってそこに存在しているのです。
世間一般で、善の賞賛の力、悪の非難の力は絶大です。
人間に限らず、全てのものは評価によってはじめて価値が生じます。
評価が無い、存在の林檎は虚ろでしょう。
評価者たちは創造者となり、あらゆる物を批判し、除外していきます。
人は自分の価値観と異なるものが同じ地球上にいるのが恐怖でたまらない生き物です。
また、自分の嫌な面を持った者にも嫌悪感を覚えます。
評価者たちはこれらに軽蔑という手段で抵抗します。
軽蔑の力は絶大です。
評価のない自己は存在しませんから。
人の心には大小こそあれ暗闇が存在します。
誰かがそれを悪徳だと叫んだのです。
人は自分の嫌な面、つまり暗闇を持った隣人に恐怖をいだきます。
隣人の心など誰にもわかるはずもなく、不信は広がっていきました。
みなその不信を叫び、不信は通念を、通念は観念を作り上げました。
観念は教育や社会常識すら変革してしまいました。
「朗らかにあれ」
と。
かくして絶対善としてのポジティブと社会悪としてのネガティブが形成されたのです。
評価が自己をつくり、社会に評価されているこの構造をどうにかしない限り、
この疚しさから逃れることは出来ないでしょう。