おなかのおっぱい
と、娘に言われた。
俺のビール腹を指しているらしい。
おなかのおっぱいに頬ずりしてくれる娘を見ると、もうすべてどうでもよく、良い。
と、娘に言われた。
俺のビール腹を指しているらしい。
おなかのおっぱいに頬ずりしてくれる娘を見ると、もうすべてどうでもよく、良い。
自由を満喫できる時間は2日間まで説。
それ以上になると寂しくなる説。
新型コロナによる。在宅×育児のパラレル生活も早3ヶ月。
最初は大変だった育児と仕事の両立も、すっかり新しい日常になった頃、緊急事態宣言は解除された。
嫁は仕事に行き、娘は保育園に行った。
そんなわけで今日、実に三ヶ月ぶりに一人で飯を食った。
ずっと行きたかった、子供お断りのラーメン屋だ。
そこそこ美味かったのだが、何か物足りない。
はて、なんだろうと考えて、わかった。
一人で昼を過ごす、時間そのものがものたりないんだ。
大人が一人で飯を食えば、まぁだいたいすべてのことが予測できる。出発時間、徒歩の道順、食って戻る時間、仕事の前のコーヒーブレーク。
そうだ、計画通り、順調だ。
だが、退屈だった。
思い返してみると、この三ヶ月はすべてが予測不能だった。
娘のうんこが漏れた。
見たこともない虫をみた娘が泣いた。
子猫が死んでいて、娘がそれを潰れてると表現した。
娘がおばあさんにりんごジュースを貰った。
娘がコンビニの外人店員さんに可愛がられた。
朝の神社で家族並んでコンビニ飯を食った。
娘がコンビニに入るやいなやヨーグルトを2つ持って買えとせがむ様になった。
娘が親を二人目の前に並ばせて、自ら歌うようになった。
娘と仕事上がりに公園に行き、俺はビールを呑んだ。
子供が生まれた。
たしかに個人の自由はなくなった。
だが代わりに、トラブルを得た。
予測不能でエキサイティングな体験だ。
一切退屈はしなかった。
そう。
トラブルと予測不能こそ、子育ての醍醐味なのだ。
娘と会える時間は少し減ってしまった。
だがその分、今、この瞬間しか味わえない予測不能な愛しいトラブルを噛み締めよう。
そして何より、娘はかわいい。
同じ辛さは、三ヶ月持たない。
逆を返せば、三ヶ月我慢すれば、どんな辛さにも慣れると言うことだ。
世界がひっくり返ったコロナ騒ぎが今はどうだ?
家で働くのに慣れた。伝染病と付き合いながら外出するのにも慣れた。
転職の心配はどうだった?
プレッシャーによるストレス、新しい環境への不安は思いの外すぐ慣れた。
子育ては?
辛い時期はあった。ギリギリの時期はたしかにあったけど、なんとか夫婦で乗り切れた。今は凪いだ海のように幸せだ。この経験があれば、きっとこれからも乗り切れる。
人間関係のトラブルは?
軽いものから裁判沙汰までいろいろあったが、思いの外すぐに慣れた。日常生活に戻った。
ストレスは高所トレーニングのようなものだ。 酸素が薄いのは最初はしんどい。
息が続かないのはこの世の終わりと思うほどにきつい。 でもきっと、慣れてしまえばそこで暮らせるようになる。 ぐっすり眠れるようになる。
もし今後、怒り、悲しみ、悩みを感じたら、三ヶ月以内にそれらの問題は去ると認識しよう。 俯瞰的にそれらの感情を観察しよう。 今は辛いかもしれないが、いづれそれは去るか慣れる。
なんでそれがわかるって?
今まで、自分が歩んできた道が証明しているからだ。 自分が1番それをよくわかっているからだ。
個人の視点により、収入が100万円の時点での10万円と、1000万円の時点での10万円の価値が違うように、
金の価値というものはその主観によって相対的に持つ価値を変える。
洋服に使う1,000円の差は大した問題に感じないが、2,000円のランチと1,000円のランチでは大きな差を感じる、といった具合にだ。
例えばこういう行為には矛盾がある。
1.近所に100g150円で旨い牛肉を売っているのに、100g 90円の牛肉を買いにとなり町まで行く
⇒ 500g買ったとしても、総額は750円と450円で300円の差。
給与全体に対して、約0.1%のインパクトしかないものに、多くの思考と労力を割き、劣悪な海外製商品を手にする。
2.1,000円の本を買うのを躊躇し、300円の読みたくもない古本を買う。その一方で6,000円の「結果が見えている」つきあい飲みに行く
⇒ 300円と比較すると1,000円の商品が高く見え、結局「安物買いの銭失い」になる。
なのに、「つきあい呑み」には6,000円以上をだらだら使う。
このコストを削減すると、6冊も同じレベルの本を購入することができる。しかもその時間を生産的活動に使うことができる
3. 毎日500円のランチを食べて、30円の納豆に、20円の卵、60円の飲み物をのみ(2食計220円)で計720円
⇒ 健康を破壊している。長いスパンでみると、治療費により高額のコストが掛かることも考えられる…。
上記のように目の前に何らかの数字が出されることによって、それが判断基準(アンカー)となり、その後の判断を左右することを心理学・経済学の用語で”アンカリング効果”と言う。合理的な絶対的評価ではなく、最初の数字やモノを基準とした相対的評価になってしまうということを言う。
その都度は合理的であるようでいて、全体的にみると全然合理的でない自分。
できるだけ客観的に自分を見、限りあるコストと時間を効率的で有意義な形で振り分けないといけない。
下記に極私的なメモとして、自分なりの支出のルールを作りたい。
【金銭的価値における極私的メモ】
■10円単位
・むしろ安いものより、よいものを買うという指向性を働かせる事で“商品体験の経験”を得るほうがよい
■100円単位
・単発の数100円の支出で悩まない
・極端な手間を惜しまない。そうしたことでワンランク上の良い物/おいしいものを買う。
・自分の時間を持つ
・だが、日に100円が毎日かかる、日割りの単位の出費は細かくチェックする
※日々の出費は単純に×30倍となる(例)300×30=15,000円
・月割数100円の単位の出費は年に1度見直す
■1,000円単位
・単価1,000円単位でも価値のあると思うものは悩まない
・5,000円単位の出費は価値のあるものにのみ支払う
※付き合い呑みには出来る限りいかない
■10,000円単位
・本当に価値があるものを見極め、それにのみ支払う
■50,000円単位
・長く(3年以上)使えるもの/人生の糧となるものにのみ支払う
・自己成長の糧になるものと判断した場合には惜しみなく投資する
以上、常時リニューアル/修正をして参考にする。
永遠なんて無いし、形ある物はいつか壊れ、無くなって行く。
なんてことは百も承知だけど、流石に物悲しいね。
無いものを有ると妄想し
いずれ滅びるものに永遠を望む所に
苦が生まれる。
とブッタは言ったが、自分の所有物も自分の死も含めて、僕はまだその期待を捨てる事は出来ないようだ。
珠に酔っ払って帰って来て踊る俺を許容してくれる嫁が欲しい。
「大した仕切り出来ない野郎だなぁ」
と、先輩に、言われた。
嫌味じゃなくてね。
…要は、後輩女子にたいして、先輩からじゃなくお前が、かっこよく領収書切れって話。
もうお前はそんな年次なんだと。
社会人四年目にして、こんな話しが出てくるんだなぁ。
上をばかりみてよい子をしててももダメだし、下をばかりみて、自腹を切 るだけで満足してても駄目だし。
純情に甘んじちゃだめだし、非常に徹しても満足できない。
求められるもんは変わってくんだなと、思った。
甘えてらんないね。
大人になんなきゃね。
暦の上では、すでに晩夏と言うらしい。
そんなことを知ったからというわけではないけれど、
盆を過ぎると終わりかけの夏の雰囲気が漂い始める。
油蝉が鳴く。
命を振り絞る叫び。
音圧。
それは、この夏に生きて死ぬことだけを目的に生まれた命が存在したという証拠を、時という正体の無いものに深く刻み付ける作業。
春は桜。
夏は蝉。
秋は落葉。
冬は雪。
日本には、はかなく過ぎてゆく時を思い出させてくれるものがある。
それがいい。
それを忘れてはいけない。
今年もまた、こうして夏が過ぎていく。
盆の時期はきまって、会社がまったりしています。