創作

創作意欲って奴は情熱だ。
最近、その情熱が無い。
感傷が少ない。
頭の動きが、心の動きが少ない。
考えるより、感じろ。
そして、動け。

「公」に学び、「個」に帰る

(つづき)
■相対主義への対抗としての決断主義
混迷した第一次大戦前のワイマール期ドイツは、価値相対主義の真っ只中にあった。確固たる言説は広まらず、人々は絶対的なものを待ち望んでいた。
そんな中、人々が待ち望んだ憲法を提示したのが憲法学者カール・シュミットである。
彼は憲法の中に「決断主義」を取り入れ、友国と敵国との峻別を行った。
簡単に言えば、「価値の淘汰」を行ったのである。
そうして改定され、引き継がれたワイマール憲法は鉄血宰相ビスマルクの元で活用され、ドイツ帝国発展の礎となったが、その後決断主義は誤用され、悪しきナチスの悪夢を生む事となる。
元官僚の学者、原田武夫は近年の劇場型政治の類似点を指摘し、その危険性を煽っている。
現代の日本と、ワイマール期ドイツの環境は余りにも違う。
しかし確かに、小泉劇場は今までの官僚型民主主義の「価値相対主義」を打破し、人々が待ち望んでいた「決断主義」を提示した。
私はそこに決断主義への単なる「憧れ」があったような気がしてならない。
単なる憧れで国は動かないだろう。
元ジャーナリストのウォルター・リップマンは、第一の市民階級として専門知識を持つ特別階級を想定し、それ以外の大部分を「とまどえる群れ」と呼んでいる。リップマンによると、彼らの役割は「観客」になることであり、行動に参加することではない。「時々、特別階級のだれかに支持を表明すること(選挙)は認めるが、それが終われば観客に戻って、支持しただれかの行動を傍観していればよい。」と述べる観客民主主義が小泉方民主主義には明らかに存在する。
この「とまどえる群れ」こそ、教化・同調傾向が強いため、操作を最も受け易い。
公益を特別な人間に任せ、肉感やリアリティを消した宣伝による情報の徹底的な記号化によって、人々に同意を取り付けた。
「個性」や「革新」といったお株を奪われた民主党と、強烈な武器を手に入れた自民党。
こうした背景が、今回の無党派層の動向に関係し、選挙結果にも大きな影響を与えたに違いない。
その背後には巨大な外資PR会社があり「ある何らかの作為」をもって、今回考察したような手法を用いていたとしたら、あまりいい気持ちがするものではない。
評論家の宮崎哲弥はこうした現状を実に的確にこう示している。
マスメディアと世論はまるで向かい合わせた二枚の鏡のように主体性を欠いたまま反射を繰り返すうちに、ある政治的パワーを次第に隆起する構造に陥っている。この構造こそが高度情報化を遂げた社会に固有のメディアポリティクス・テレポリティクスの概念である。メディアと世論の共振によって現出する情報空間は基本的に閉ざされており、外部性を欠く為、一旦暴走し始めると制御が効かなくなる。新しい形のファシズムが出現するとすれば、こうした構造の中から生まれるであろう』と。
こうした政治レベルでのマスの流れはいずれ、文化レベルでの対立をも引き起こすだろう。
現にアメリカの資本<帝国>主義はこうした現状の中で飽和点を向かえ動物化した。
そして国外へとその矛先を向けている。私たちが持つこうした文化的特質はアメリカの政治学者サミュエル・ハンチントンが指摘するような「文明の衝突」状態、ひいては紛争状態に陥る危険性を孕んでいるのである。

■社会と個人への処方箋

驚くべき事に英国では、「English」(日本での「国語」に相当)の時間に、メディアリテラシーの学習を設けている。そしてさらに英国映画協会が、教材開発、教員トレーニングなどにおいて、全面的に協力している。
カナダの小学校でも「Language」あるいは「English」(同じく日本の国語)は、「読む」、「書く」、「口頭と映像によるコミュニケーション」の3本柱からなっており、メディアリテラシー教育が義務付けられている。
「絵になる」風景だけを取り出す傾向、番組の結論に近いコメントだけを取り出す傾向といった、作り手の都合を生徒も自分で感じる。テレビ局など作り手の意識を垣間見ることで、今後の自分の視聴がより客観的になることが期待できるのである。そうしたビデオ制作実習のためには、教員トレーニングが不可欠で、英国映画 協会は、そこも支援している。
こうした教育を通して見てみると、私が今まで考察をしてきた「記号化による画一化」という危機も回避できるように思う。また、メディアリテラシー教育が浸透していたならば今回の解散総選挙の結果も大きく異なっていたに違いない。
メディア・政府に潜む作為や操作は、当然当事者であるメディアや政府側からの支援を期待できない。だからこうした団体は半民半官で構成されていて、「草の根の市民活動」に趣は近い。
翻って日本の現状を考えて見るに、それは大変お粗末な状況といってよい。政府に「特命チーム」があることも「大衆操作の意図」があることも公教育で教えられる機会は皆無に近く、依然として民衆は「さまよえる群集」である事を期待されているからだ。
しかし近年日本に於いても市民・企業体からはメディア理解や選挙報道に対しての能動的な働きかけの萌芽が見える。
例えば社団法人、日本民間放送連盟は2002年から水越伸東大助教授と共に、市民間での「メディアリテラシープロジェクト」を発足させている。
市民の側からは特定非営利活動法人「FCT市民のメディア・フォーラム」でも、メディアリテラシーファシリテーター研修セミナーや、市民向けの講義、をVチップの導入検討など多数行っている。メディアウォッチ、情報開示の動き等もNGOの中で近年活発化してきている。
ただ、現状は未だ十分な対応とは言えない。
世界有数の高度情報化社会であるにも関わらず、政府の対応としては、各種審議会の答申等で「メディアリテラシー」の重要性について「提言」しただけである。具体的な取り組みは見当たらず、郵政省、文部省において、方向性を検討している状況に留まっている。
教育の場では、各教科や「総合的な学習の時間」において、コンピュータやインターネットを積極的に活用することとしている。また、中学校の「技術・家庭」や、平成15年度から高等学校に導入される教科「情報」を通じて、「情報活用能力」の各学校段階を通じた体系的な育成をはかっていく事としている。
が、しかしそうした内容にも他の先進国に比べると偏りや不備が残ってしまう。
一部の先進的な活動を誇る自治体(代表的な所では静岡総合教育センターなど)による取り組みを、より広範囲のメディアに取り上げる事で、国単位の法整備を行ってゆく事が急務である。
そして学校教育を終了した成人やシニア層に対しても、公共放送を用いる等して積極的にメディアリテラシーの存在意義をアピールしてゆく必要性があると思われる。
一方、今回の総選挙に於いて、民間や企業は活発な活動を行っていた。
例えばブログやSNSを使って投票率をあげようと、企業家たちが「YES! PROJECT」を立ち上げ、若者に投票を呼びかけた。
さらに、多くのブロガー(ブログの管理人)が自身のブログに、政策や投票行動について書き込んだ。
また、「はてな」というサイトでは「総選挙はてな」というコンテンツを立ち上げ、予測市場と呼ばれる日本では耳慣れない仕組みを利用。政党を会社に見立てて株式(アイデアポイント)を発行、その株式をユーザーが取り引きすることで政党の時価総額=議席数を予測するサービスを行った。
さらに古参サイトでは候補者情報、ネット世論調査などの選挙情報をインターネット上で紹介しているサイト「ELECTION(エレクション)」も昨年からは、政治家のブログポータルを開始した。
こうした選挙に対する的確な情報を得ようとする市民単位の活動が、世論の活性化に繋がる。
また断裂された個を「新たな公共」の場に引き戻し、情報に対するクリティカルな視座を養う事になるのである。
当面政府や行政の対応に期待が持てない以上、こうした民間のマンパワーをどこまで広げてゆく事が出来るかが、今までの悪しき情報の流れを断ち切る事が出来るかどうかの境界線となるだろう。

■現代に生きる生と、その限界。希望。(論点整理

現代に於いて、分断された個はもう一度市民へと帰り、型にはめられた後にまた、分断された「公」に帰るといい。
こうした工程を経て、はじめて私たちは何とかお粗末ながらも個人の価値観に基づいた選択という「自由」を手に入れる事が出来るのだ。
先に述べたように個は何処までいっても個であり、孤独だ。
しかし、その個をすら認められない生を生きて、どうする。
その事に気付かない生は、少なくとも世界の箱庭の果てを知らずに、その中で安住し、死んでいく。
個々の生の力は微々たるものかもしれないが、それらが、つんのめりながら結集(言い方が悪いが)したとき、生は少なくとも今よりは少し、まともになっているに違いない。

大きな物語の喪失と記号論的消費

■ポストモダン社会に於ける我々の現状と、消費という表象の問題点についての考察

19世紀後半から20世紀前半にかけて、人間はその存在を裸のまま明るみにだした。

ニーチェは「神は死んだ」と述べて宗教的価値観を根底から覆した。

フロイトの無意識の発見によって、人間は単一的自己観の幻想を打ち砕かれた。

ダーウィン以降の進化論によって歴史の必然性は瓦解した。

マルクス主義の失敗によって「大文字の理念」は空洞化した。

レヴィ・ストロースの「悲しき熱帯」によって文明神話は灰燼に帰した。そして21世紀の国民国家は、19世紀にヘーゲルが描き出したような、全体性を体現する存在ではなくなった。

インフラとしての国家は機能し続けるが、その機能はかつてなく無意識化され不可視化されるようになる。そして、人々の社会生活は、脱国家的な多様なコミュニティーに多重帰属しつつ行われるようになる。

フランスの哲学者、リオタールはこれを「全体性の消失」と言った。
宗教的、社会的全体感(第四次集団)が解体された現代社会に於いては、社会学的な第一次集団(家族所属など)、第二次集団(会社所属など)や第三次集団(個々のアイデンティティなど)の次元で自己を支えなくてはならなくなってしまった。

文化は断片化し、島宇宙化された個々のコミュニティーに帰属する事による、良い意味での「自由」、悪い意味での「脆い土台」を手に入れた。
ドストエフスキーは「もし神が存在しないとしたら、全てが許されるだろう」と書いた。

しかし、したがって人間は孤独なのであり、不安定な存在であるのだ。
そうした思想や良心が空洞化した最中にあっても現に世界は動く。それでも世界は回る。そして世界は経済によって支えられている。

そう、サルトルが「実存は本質に先立つ」言ったように。

しかし、庶民レベルで起こる「流行」は依然として、「意味の消費(投票行動も含め)」であり続ける。そう、消費とは「意味」の「消費」に他ならないのだ。その「意味」とはこれまで述べた、自己実現や孤独の解消などの欲望への刺激で形づくられている。

そして「意味化」した商品はやがて、自己の豊かさやライフスタイルを投影する為の「記号」となる。こうして流行(投票行動も含む)はボードリヤールが述べたように「手段的なコードに基づいた、意味付けとコミュニケーションの過程」となり、帰属集団不在の代替物としてのコミュニケーションになるのである。
社会学者の宮台真司はこうした状況に於いて私たちに「まったり」と「濃度に満ちた」生活を送るよう勧める。

しかし、それでは公共操作術や情報操作に対応する危険性を拭い去る事はできない(宮台氏の今の言説はまったりではなくなったが)。

大規模な広告代理店のマスプロデューサーや自民党という強大な政権与党による情報は、「差別化」という操作されたフィルターを通して、それを選択する事を「個性」として認知するように作られて私たちに発信される。
「よりあなたらしく」
「私たちが真の革新政党です」
「驚くべき新製品が今まさに発表されました」
といったようなメッセージに乗せて。
都市化、商業化の過程に於いて孤立化し、個を分断された私たちはそうした「消費のためにつくられた記号」を、相対化し批判する術を持たない。

帰属集団を持たない私たちは、そうした言葉に酷く弱い。
甘い言葉に飛びついて、三次的集団への所属感を満たす。

先に述べてきたように、そうして投影と抑圧を繰り返してゆくと人々は「教化」され、記号消費のいわばプロフェッショナルとなる。
そうなれば、もはや自分たちの消費行動を客観的に観る事など適わなくなる。
そうしてある共通する方面から供給される記号を、あたかもそれがファッションのように教化された個性が消費されてゆくと、その隘路には「画一化」が待っているだろう。

キッチュ(まがい物)やガジェット(悪趣味品)が氾濫し、ただひたすらシミュラークル(オリジナルとコピーの区別が弱くなった後の、そのどちらでもない中間形態)を量産する状態。そうした人々がもとめている「個性」は何時の間にか、リゾーム(地下茎)的な欲望の流れに当てはめられてしまっているのである。

この一連の流れの中で見えてきたもの、それは精神に於ける「全体性の喪失」と実質社会に於ける「画一化」。
逆流現象とも言えるこうした現状が今、水面下では進行しているのでないかと思う。

そうして、混乱した信念や行動をもつ人々に、さらに効果的に大衆操作術は作用しうるのである。

発見

電車で発見した。
「眠いなぁーあぁきついわぁ」
と思っていた時の事。
ん?
「眠い」って言う感情を「辛い」という結論に結びつけないで
「気持ちいい」
に結びつけてみたら、どうか?
「痛い」や「苦しい」じゃ本当に苦しいからちょっと無理そうだけど、「眠い」は実は苦しくなくない?
「眠さ」は「痒み」に近いような気がする。
痒みを掻いた時にあるあの快楽を、眠さに置き換えてみたら、どうか?
強迫観念的に、眠い→辛さと思わなければよい。
「眠い、自分は眠いけど、気持ちいい~(´∀`)」
の境地まで行けたら人生またちょっと楽しくなるかも。
…凄くお馬鹿なコペルニクス的転回。

懐古

今日は、学校にゆくまえに朝早く起きて歯医者に行った。
終わって暫く時間があったので、久しぶりに地元を自転車でウロウロした。
中学の頃、初めて好きになった人と遊んだ小さな小さな公園の、二人で遊んだ小さな回るコーヒーカップの遊技機が、錆びた鉄の芯だけになって、ただ何もないところにただ一本で立っていた。
割と通る道だったのに、今の今まで気付かなかった。
冬の日が仄かに暖かい昼下がりである。辺りは無音。
――自分は、何か大切なものをどこかに置き忘れてきたんじゃないか。
自分は幼い頃、もっと環境の変化に心の機微をあわせる事ができた。
季節の移り変わり、日の陰り、虫の生態、隣人の感情、未熟ゆえの孤独、空気の匂い、土の肌触り…
それらを総合して得、全身で感じる「時の流れ」。
友達と砂山にトンネルを作って貫通した時の友人の手の生々しさとか、
はじめて張った霜を踏みつける時のときめきとか
一人で夕暮れ時に帰るときのどこかの家から流れてくる焼き魚のたまらなく良い臭いの切なさとか
カエルをてずかみにしてペットとして飼ってみちゃう無邪気とか
鬼ごっこで顔を地面に押しつけてまで必死で隠れた時の、土の近さ、大地の存在感とか。
陰が小さくなるくらい真上にある真夏の太陽の下、蝉の鳴き声とともに煩雑と聞こえてくる「いいとも」のあのえもいわれぬ感じ
あれ。

ああゆうのさぁ。

もっと原風景を原風景としてそのまま需要できた感受性てあった訳じゃない。
難しいカタカナ語を使ってみたり、へんな援用してみたり、わざと表現を婉曲したり、卑猥な言葉を使ったり、散文詩的な表現が格好良いと独りよがりに思ったり。
そうゆうのも勿論いいけど、自分達がそういうのを自分の中にいれる事によって失う感受性は、思ったより多いと思う。

気付いてない部分がきっと一番多い。

そういう所謂大人部分は勿論必要だよ。幼児退行化しろなて事はいってない。
たまにたまに、自分を懐古する事は絶対良い事だと思うな。

幼い事も今も、トータルでみたら多分なにも変わらない。

感受性が減って、知識とそれをまとめる能力が増えただけ。
卑猥な事を知っただけ。

だから自分は、子供達に学ぶ事は多いと思う。

これからは子供達に学ぼう。

十全

もう既に、日本中があの列車事故のことを忘れようとしている。
このコラムに於いても僕はあえて事件に触れてこなかった訳であるが、今だからこそ、思うところを書いておきたいと思う。
僕はこの事件を通じてある二つの事柄を再認識するに至った。

Ⅰ.
一つ目は冒頭でも触れた「情報の劣化」という魔物の存在である。
この魔物は人々の忘却で成り立っている。
もしくは別の言い方をすれば「飽き」だ。
列車事故。そのショッキングな映像は当初僕たちの眼を釘付けにし、連日の話題の中心となった。

しかしどうだろう?

この一週間、僕はその話題を耳にする頻度が、そのことが議論される回数が、悉く減っていっていることを意識する。

もちろん、同じニュースを永久に報道しているわけにはいかないことは僕にだってわかる。
しかし100人が死んだ事故で、その報道としてはあまりにも忘却が早いのではないかと思うのだ。
今、テレビをつけても、くだらない日常を報道する番組と、下卑た笑いを垂れ流す番組がメインだ。ではニュースは?といえば、人々の不安と憎しみを喚起するような構造のニュースをしか報道していない。
僕は「センセーショナリズムが悪だ。」「大衆的報道が悪だ。」
と、マスコミ全体を糾弾するわけではない。

【人々の欲しい情報の帰結として、今の報道がある】

ということが言いたいのだ。
つまり、人々は自分の生活を脅かす恐怖以外の何ものにも対して興味をもっていないということである。
皆、無意識のうちに事故被害者の人間を、「運の悪い人間」として意識し、自らを「そんな事故には巻き込まれることが無い人間」と差別化して意識する。

その結果、人々の意識の中で事故は風化し、さらなるセンセーショナルな事故を求めて新たなる報道を求めるのだ。

106人という数字は一瞬にして死んだ数字にしては、リアリティーに欠けるということか。

たとえば、106人が一人一人、一日に一人ずつ殺人鬼に殺されていったなら、この事件の被害者はより強烈に国民の心に刻み込まれていっただろう。

皮肉なことに、その失われた命の重さは106人が同時に死んだことによって、悪意に基づく喪失より軽く意識されている結果となっているのである。
この根底には、先ほど申し上げた「運の悪い人間」としての差別化があると思う。
つまり、人々は自分の身の安全という曖昧な確証を、時間という費用を払って買っているに過ぎないのである。
ニュースを見て、解説者の尤もらしい説明を聞き、茶の間にいながらにしてまるでその場で見ているようなテレビ画像という千里眼を手にする。
そうする事によって、自分にとって未知で不明な意味のわからない「不安」に、何らかの解釈を与え、「既知の安心」に変化を起こし、自分の身の安全を確保した錯覚に陥る。 ニュースの存在、それ自体の機能はこれに尽きると思う。
だから、人々はそろそろこの事件に飽きてきたのである
原因も大体わかってきた(いい加減な解説者のコメントによって)し、そんなに気にすることではなくなったのである。
人々の「飽き」と「諦め」の範疇に入ったら最後、被害者関係者以外の悲劇的感情と鋳物は一年忌や最高裁の判決が下される時に、「ああそうか」と思う程度に風化していく類の情報に過ぎなくなっていくだろう。
それだけ、世間には「暇つぶし」の情報は溢れている。
まるで、空腹なイナゴの群れのように、悲劇から悲劇へと視聴者は動く。

それらが去った後は、被害者家族のマスコミに掻き乱された傷と、永久に消えることの無い怨嗟の念だけが、後塵を撒き散らす砂漠のような土地に残るのである。
Ⅱ.
少々長くなってしまったので、二つ目を手短に記そう。
この事故の原因、それは運転手のミスだろうか?
それともJR西日本側の労使関係のミスか?それとも…
と、いろいろに推測することができるが、僕ははその原因を資本主義に見る
今回の過密ダイヤにしても、国鉄の民営化にしても、それは僕ら国民が要求してなされたことである。
多分、こんな事故が起こる前までは、僕らは電車が五分遅れただけでもイライラし、「ちょっとスピード違反しても急いで来いよ」と思っていただろう。

あなたはどうか?

僕はそうだ。

自殺者がいて電車が30分遅れた時など、JRを恨むどころか、その自殺者を恨んだものだ。安全性の確保よりも、その自殺者の行為を呪ったものだ。
だとするなら、僕らが安全を確保せよ!なんていうのも実に勝手な話であり、それを断ることはJR西日本にとって、費用面でも、精神面でも難しかったのではないかと推測できるのである。

ダイヤを過密にして、切符代を安くして、かつ正確な運営をする。
それがどんなに困難で無理のあることか、僕たち消費者は意識しなさすぎた。
その消費者の無責任な欲求が、ダイヤの過密化と、懲罰の激化というツケを生み、それがあの若い愚かな運転手のじっとりと汗のかいた手の握るレバーを動かしたのである
結局、ジャーナリストにしろなんにしろ、自分たちが勝って気ままに叫んできた要求が履行されていなかった事実と、自分本位の一方的な信頼との齟齬に混乱をきたし、わめいているだけなのである。
ではなにを恨めばいいのか?
被害者家族は直接の加害者である運転手を恨めばいいだろう。
例えどんな歴史的背景があろうとも運転手には同情の余地は無い。
JR西日本は置石のせいにでもして現実逃避すればいいだろう。
逃げ回ることで気が晴れるならどうぞごかってにと言いたい。
では僕たちは何を恨めばよいのか?

それは「奢る」心を恨むしかないだろう。

私鉄との過激な競争と消費者の板ばさみにあって、JR西日本はこのような醜態を晒した。
消費者は勤勉で実直で正確な、通勤や通学の義務履行の為に正確なダイヤの運行を要求した。
それぞれ各人の義務履行の集積が資本主義のエネルギーの根本原理、競合である。
それが今回の事故のもっとも深い根にある考え方だとするならば、今回の106人もの人々を殺害したものは他でもない、「他人を蹴落としても金持ちになりたい」という理念であり、そうした欲求とそれに答えることができなかった歪みが屈折した結果、こうした傷ましい事故が起こったのである。

だとするならば、僕らはどうすればいいのだろうか?

僕は「共産主義になるべきだ!」なんていう、妄想はもちろん言わない。

戒める。

それだけでいいのだ。
安全と正確さは同時に買うことができない、という意識を今回の事故で皆で共有すべきあのだ。
そうすれば、電車が遅れようとダイヤが乱れようと憤然と要求をする無責任者はへるだろう。
無責任者が減れば、社会に於いてもダイヤの乱れで起こった遅刻などの責任はとらなくてもよい風潮が根付くだろう。
そうなれば、JRや他の私鉄も精神的金銭的な余裕ができ、安全対策への道筋も開かれるだろう(もちろん抑止力たる意見や機関は必要であるが)。
各個人が奢る心を戒める。
それが僕ら、他人の死などに本質的には対して興味を抱かない、野次馬的な傍観者たちのできる、事故被害者への精一杯の弔いとなるだろうと思う。
そうした積み重ねが、死のうと思っていない人を死ない為に、必要なのではないかと思う。
さて、報道は何故こうした未来につながる啓蒙的な活動をせずに、センセイショナルな映像を流すことののみに終始しているのか。
まったく、今回の事件で僕は人間の「業」をしか見ていないような、不愉快な気分になる。
この事件を通じて、評価すべき人間は二種類しかいない。
瞬間に生きた証を悲劇へと刻み込んだ被害者と、その生と憎しみを背負って生きる義務を負うこことなった被害者の、運命に翻弄された者の純粋な感情のみである。

陰口のメカニズム

人間なら誰でも何かしらの集団に属して生きていかなければなるまい。
かくゆう私も、学校・サークル・家族・親類・アルバイトets…様々な集団に所属してやっとのこと孤独をごまかしごまかし生きている臆病な人間のひとりである。
金欠に急かされて先日、アルバイトを始めたことはこのページを読んでくれている方ならご存知と思うが、最近、そのバックヤードでの彼らがしきりに話す、陰口についていくことが出来ない。
まあ、アルバイトを始めたばかりで、人の名前も知らない段階だし自分自身、仕事が出来るというわけではないので自然と彼らが話す陰口の乱舞を客観的に聞くこととなるのである。(俺も言われてんだろうなあなんて思いつつ)
冷静に、客観的に、彼らを見ていると実に彼らは嬉々として人の悪口を話し、人を陥れようとする。
しかし実際思い返してみると、いままで自分が所属してきた集団の中で話が一番盛り上がる時は、人の陰口を囁きあっていたときではないか?という疑念が湧き、彼らと同じように誰かに客観的に見られているそのときの自分を思い、ぞっとした。
たぶん僕はそれを止められないし、だからなおさらやめろなんで忠告をすることは出来ないだろう。
あともうひとつ気づいたこと。
人の悪口を言うような場合、ほとんどそれは本人の前ではない。
それは何故なのだろう?
この問いから派生したものが先日気づいたことである。陰口は、けっして本人に語られることはない。改善が求められる点、また改善の可能性がある人間でもそれはかわらない。
いいか悪いかの問題で言ったら、組織においては欠点や欠陥は改善されたほうが良いに決まっていることは至極明確な話であるが、それはけっして本人に語られることなく消化されていく。
解答はこうではないか?
――陰口とは対象の人間に対する不満や、自らのコンプレックスに対する反発の、共感・正解感を得るために他人と行う行為である。
ということは組織の中で陰口は、ストレスやコンプレックスのスケープゴートとしての機能を担っているのではないか?言うなればストレスの暴発、もしくはただの発散のための犠牲者である。むしろ対象者の欠点・欠陥つまり陰口の議題となる点は改善されてはならないのである。そうなると「生贄」がいなくなってしまうから。
陰口を言われる人間に忠告をすることなく問題を放置しておく事は、皆が無意識に組織の機能を効率的に運用するために行う行為だとしたら、先程の問いへの説明はつく。
なかよしだけでは退屈で人間は生きてはいけないのだろうか…
人間は複雑至極な生物である。これがすべての解答だとは言うことはもちろんできないが、この解答ももちろんひとつの人間の側面として存在していると、私は思う。
この構造にに気づいた時には人間存在の邪悪さというか救われない醜さにぞっとしたが、気づかないよりはましだとも思う。
なんたら成人やなんたら佛さんでもない俗人の俗人たる私は、悪魔の誘惑に屈服し、これからもクソのような笑顔で人の悪口を叩き続けるでことであろう。
しかしふと思う、それを0にするこたあない。
意識出来る程度に変なことを言うのを減らしていけばいいんだな。なんて無責任に思った。