余暇について
大学生最後の夏休みの真っ最中に、これから社会人になる前の僕が、社会人になった後の僕へ贈る言葉を残しておきたいと思う。
まず、もう既に成人を迎えた大人としては失格な、然しありきたりな言葉を吐こう。
「仕事など、したくない。」
これが、どう考えても本音に近いのである。
どんな仕事も、娯楽以上には楽しくなりえない以上、仕事はその目的を生活の基盤としての財政にもつ事になる。
この社会の構成員として、この社会を成り立たせて行くために、我々が、生産力を生みしてゆかなければならない。この社会を維持していくためにはとても莫大な エネルギーを消費するため、組織は常に拡大再生産を強いられる事となる。
そうした組織の構成員である我々はさらに能率を求められることは言うまでもなく、いかにして個人の自我を押し殺し、曖昧な形にして、その責任を常に求められる事となろう。
それは社会全体としてみるのであればもちろん必要なことであろうし、見ようによって「美しい」事にすら見える。
だが、我々は言って見ればミジンコよりも小さい構成要素の粒子の一粒だ。
もっと卑近なところで話をしよう。
その卑近な我々は、働く。
社会がそういう仕組みになっているのだから仕方ない。
だから、僕達は人生全体を占める自由時間を切り崩して、労働にあたる。
そうして得た金銭をもって余暇を過ごす。
つまり、人はもともとある自由時間を使って労働し、その労働をもってさらに自由時間を買っていると言うことができるのである。
労働の対価としての余暇ということを考える時、そこにはヘンテコな関係が出来上がる。それはつまり
「余暇のために働く」
のか、
「働くために余暇がある」
のか、
という論理のパラドクスである。
一見言葉遊びか、詭弁のように見えるかも知れないが、これは日本全体の労働と暮らしを貫く根本的な問題であるような気がするのだ。
行為と目的、認識と実践のあいだに明確な関係性と方向性と欠落した社会は、労働や余暇自体が「それ」だけで自己目的化し、永遠なるループを辿ることになるのである。フーコーは生活に潜む下品な永遠性を「嘔吐」と表現したが、その嘔吐感が今まさにこの社会全体を覆っている、言い知れない停滞感と、混乱を生んでいる一要因であるように思うのである。
男(女性に関してはスペースの関係上此処では割愛させて頂く)にとって、どういう状態が理想であるのだろうか?
皆現実裏では何をを求めているのだろうか?
働かなくても食えるような完全な保護状態だろうか、十分な資産であろうか?
いや敢えて「NO!」と言わせて頂こう。
そんなものはただ人間を肥えさせてゆくだけで、怠惰しか生まない。
なんの人間的成長もありえない。
さて、その代わりに僕が思うのは(唐突であるが)、
「幼少の再来」
であると思うのだ。
実はは皆が既に追い求めているものであるのだけれど…
老いは、悲しい。
それは充実した「今」を過ごしている事に対する切実な逆説として、歴然として存在している。
そうした、老いに逆らいたいという本能にも似た感情が、
「少年へと帰りたい」
という感情を生み出すのである。
余暇の過ごし方は人それぞれであるが、それは往々にして子供返りを諭すようなものが多い(もちろん全てとは言わないが)。
余暇とは、一時の夢である。
本来所属している組織の見えない責任の鎖による管理下にいながら、それを一日乃至数日間忘れて遊ぶ夢である。
それのために人は七日間のうちの六日間を労働するのである。
恐らくは、それは幼少の頃の自由と酷似する。
少年の自由は自由であるようで完全な自由ではない。
それは母性に守られての自由であった。
束縛の範疇に於ける自由。
疑うこの無く騙される事の出来る軽率さ。
そうした制約の中での安心感が常に介在した自由であった。
しかし、大人になってからの自由は、そうはいかない。義務と責任を常に問われる成熟社会に於いては完全な自由の代償はすなわち人間性の喪失である。
こうした事態を防ぎつつ、かつ心地の良いあの幼かった頃に体験した自由を得るために、人は労働を対価にして余暇を買い、母性による安心感を得るために、結婚をして女性の管理下に置かれるのである。
かくして、男は余暇に模擬的な少年時代の自由を獲得し、意識的に訪れる老いの恐怖や、冒頭にいった堂堂巡りの状況に上手く目を瞑るのである。
大人の男が、余暇の獲得に邁進するのも、このような少年への憧憬というエネルギーがそうせせるのではないかと、僕は思うのである。
つまり不可逆なる時の流れに対する反抗期で我々の人生は出来ているのではないのだろうか?
そうした、大河の流れを逆流させんとするような、挑戦で僕らは老いて行くのである。
だが、思い返して見て欲しい。
我々人間の、全ての終着駅を。
そこでは僕達は愛するの者の世話になるしかないだろう。
老い果てた後は、愛するものの母性に全てを任せるしかないだろう。
つまり、黙っていれば、人生の序で、人は子供に還り、生涯の念願の幼少を獲得出来るのである。
完全なる自由はそこで獲得されてもよいんじゃないかと齢二十二にして思うのである。
(注;まだたいした労働もした事のない者の言う戯言です。労働それ自体にも愉快はあるかもしれない。いや、あるだろうという希望はある。本当の労働をして、またこの文章を読み返して見るときが愉しみである。)