手
母の死を経てから最近特に感じるようになったのは、「時」の存在だ。
こうなるまで、何故か感覚として「過去」も僕の側にいるような、過去が味方にあるような、
そんな直感を持っていた。
だが、それは違った。
ある強烈な一点を意識した時、高速で走る電車に乗っている時のように、
遥か後方にその一点(あの病室)があるように感じる。
時は走り去るし、僕も走っている。
それを意識した時、過去はもう戻らない点であり、今に至る不可逆な線でもあると「識る」事ができた。
遠く離れた過去は物質としてなんの意味も持たない。
僕の頭の中にある、感傷だ。
あらゆる過去は、今生きている人間の頭の中にしか無い。
書物も、建築も、歴史も、認識されるまではただの紙であり、石であり、想像だ。
だからいや、今も、あらゆる価値は、人の、いや自分の頭の中にあるんだ。
だから、人は短い人生の最後の瞬間には、頭の中にあるものしか持っていることができない。
どんなにその人生が幸せでも、人に認められても、立派な家を建てても、満足のする作品を残してもその成果を死の向こう側に持っていくことは出来ない。
だから、僕は、死ぬ少し手前、苦痛を感じながら、死に怯えながら、最期に意識が消失するその時には、他人に迷惑をかけない保証の出来る金と、たくさんの思い出と、それらによる自分自身の納得があればいいと思う。
それがあれば一人で逝く孤独と、胸に去来する寂しさと、恐怖と、戦えるだろうか。
今はわからないけど、無いよりはマシだ。
僕はジョブズでもなんでもないから、直ぐにその境地にたどり着くのは無理だ。
だが、たとえ一歩づつでも、後ろ向きでも、いびつでも、ひねくれていても、
その状態を作ることができるのは、
他でもない、今、キーボードを売っているこの手だ。
そしてそれを支えている二本の腕だ。
今、この記事を読んでいるその目だ。
“わたし”だ。
全部が自分に返ってくる。
“人は生きたようにしか死ねない”