「不幸論」

中島義道の「不幸論」を読む。
哲学者の新書らしく、そのほとんどが浮世離れした、実用性にかける「おはなし」だ。
死がある限りだれも幸せになれないらしいよ。
だが、浮世離れしているが故に、精神の奥深くにあるニヒリズムの「痒み」を掻いてくれる気持ちよさがある。
その中から真をつく引用をいくつか引用。
「気を紛らわすこと。人間は、死と不幸と無知を癒す事ができなかったので、幸福になるためにそれらのことを考えない事にした。」
「惨めさ、われわれの惨めなことを慰めてくれるただひとつのものは、気を紛らわすことである。しかし、これこそわれわれの惨めさの最大のものである。」
パスカル
なるほど、幸福とは一種の麻痺である。
「そんなことを考え始めてはいけない。そんなことをしたら、気違いになってしまう。」
『一年ののち』 サガン
深淵をのぞくものはなんとやら…ですね。
考えてはいけないのです。
考えなくてはならないのです。
「他人の幸福のすばらしい点は、それがそのまま信じられることです」
プルースト
自分の幸せと他人の幸せのもっとも異なる点はココ。
秀逸な一文。
筆者は、幸福の性格を以下に分類する
1.自己の欲望が満たされていること
2.その欲望が自分の信念にかなっていること
3.その欲望が世間から承認されていること
4.その欲望の実現に関して、他人を不幸に陥れることはない

この原則からすると、我々の幸福は厳密には達成されないことになる。
死の瞬間まで。
死んだら私はなくなるけれどね。
世はクリスマス。
みなさん。
幸せですか?
その幸せは、ホンモノですか??

I say thank you for the music

音楽の力を思い知るこの頃だ。
実は最近、音楽をきけていなかった。
とゆうのは、大学時代から僕の使っているプレーヤーが壊れてしまった事による。
新しいCDを買おうにも外に持ち出せない状況が続いた。
意外に大丈夫だと思った。
高校時代、いや中学生時代から続いた外出時に数分でも時間があると音楽を聴くという習慣は以外と簡単にやめるとこができた。
耐える事ができないと思っていた無音の世界に入っていった。
音を必要とする時間はどんどん減っていった。
会社では音楽好きを自称するも、実際は音楽も聴かず、ただ日々をすごしていた。
音楽はすぐ側にあると思っていたものが、いつのまにか音楽は遠くにいってしまっていた。
電車に乗る時も、家に帰ってからも無音。
最後にスタジオにはいったのはいつだっか、忘れた。
そんな生活を繰り返していたある日、僕はふと今まであった自分のスキルが色々消えている事に気がついた。
今までなら乗り越えられる鬱の壁が、いつのまにか強大なものに感じられた。
必要としていない筈の音楽が、僕をよんでいた。
いや、僕の底にある何かが、音楽を欲していた。
ソニーのネットワークウォークマンを買う。買ったがOSがMEなのでインストールできない。
仕方ないのですぐパソコンを買う。
周辺機器を買う。
迷いは無かった。
音楽は、たゆたうもので、強制されるものではない。
自己に対する先入観的脅迫観念で聴く大学生や、自虐目的の自称「わかる人」のオタクとか、そうゆう事じゃないと思う。
音楽が気付いたら側にいる。
活力や勇気や、希望を与えてくれる。
ときには絶望や、悲観に寄り添うとゆう安らぎを与えてくれる。
そんなもんだ。
そんなもんだか、
しかしなんだ
音楽にこうして付き合う事が
以外にどうして難しい…