「公」に学び、「個」に帰る
(つづき)
■相対主義への対抗としての決断主義
混迷した第一次大戦前のワイマール期ドイツは、価値相対主義の真っ只中にあった。確固たる言説は広まらず、人々は絶対的なものを待ち望んでいた。
そんな中、人々が待ち望んだ憲法を提示したのが憲法学者カール・シュミットである。
彼は憲法の中に「決断主義」を取り入れ、友国と敵国との峻別を行った。
簡単に言えば、「価値の淘汰」を行ったのである。
そうして改定され、引き継がれたワイマール憲法は鉄血宰相ビスマルクの元で活用され、ドイツ帝国発展の礎となったが、その後決断主義は誤用され、悪しきナチスの悪夢を生む事となる。
元官僚の学者、原田武夫は近年の劇場型政治の類似点を指摘し、その危険性を煽っている。
現代の日本と、ワイマール期ドイツの環境は余りにも違う。
しかし確かに、小泉劇場は今までの官僚型民主主義の「価値相対主義」を打破し、人々が待ち望んでいた「決断主義」を提示した。
私はそこに決断主義への単なる「憧れ」があったような気がしてならない。
単なる憧れで国は動かないだろう。
元ジャーナリストのウォルター・リップマンは、第一の市民階級として専門知識を持つ特別階級を想定し、それ以外の大部分を「とまどえる群れ」と呼んでいる。リップマンによると、彼らの役割は「観客」になることであり、行動に参加することではない。「時々、特別階級のだれかに支持を表明すること(選挙)は認めるが、それが終われば観客に戻って、支持しただれかの行動を傍観していればよい。」と述べる観客民主主義が小泉方民主主義には明らかに存在する。
この「とまどえる群れ」こそ、教化・同調傾向が強いため、操作を最も受け易い。
公益を特別な人間に任せ、肉感やリアリティを消した宣伝による情報の徹底的な記号化によって、人々に同意を取り付けた。
「個性」や「革新」といったお株を奪われた民主党と、強烈な武器を手に入れた自民党。
こうした背景が、今回の無党派層の動向に関係し、選挙結果にも大きな影響を与えたに違いない。
その背後には巨大な外資PR会社があり「ある何らかの作為」をもって、今回考察したような手法を用いていたとしたら、あまりいい気持ちがするものではない。
評論家の宮崎哲弥はこうした現状を実に的確にこう示している。
『マスメディアと世論はまるで向かい合わせた二枚の鏡のように主体性を欠いたまま反射を繰り返すうちに、ある政治的パワーを次第に隆起する構造に陥っている。この構造こそが高度情報化を遂げた社会に固有のメディアポリティクス・テレポリティクスの概念である。メディアと世論の共振によって現出する情報空間は基本的に閉ざされており、外部性を欠く為、一旦暴走し始めると制御が効かなくなる。新しい形のファシズムが出現するとすれば、こうした構造の中から生まれるであろう』と。
こうした政治レベルでのマスの流れはいずれ、文化レベルでの対立をも引き起こすだろう。
現にアメリカの資本<帝国>主義はこうした現状の中で飽和点を向かえ動物化した。
そして国外へとその矛先を向けている。私たちが持つこうした文化的特質はアメリカの政治学者サミュエル・ハンチントンが指摘するような「文明の衝突」状態、ひいては紛争状態に陥る危険性を孕んでいるのである。
■社会と個人への処方箋
驚くべき事に英国では、「English」(日本での「国語」に相当)の時間に、メディアリテラシーの学習を設けている。そしてさらに英国映画協会が、教材開発、教員トレーニングなどにおいて、全面的に協力している。
カナダの小学校でも「Language」あるいは「English」(同じく日本の国語)は、「読む」、「書く」、「口頭と映像によるコミュニケーション」の3本柱からなっており、メディアリテラシー教育が義務付けられている。
「絵になる」風景だけを取り出す傾向、番組の結論に近いコメントだけを取り出す傾向といった、作り手の都合を生徒も自分で感じる。テレビ局など作り手の意識を垣間見ることで、今後の自分の視聴がより客観的になることが期待できるのである。そうしたビデオ制作実習のためには、教員トレーニングが不可欠で、英国映画 協会は、そこも支援している。
こうした教育を通して見てみると、私が今まで考察をしてきた「記号化による画一化」という危機も回避できるように思う。また、メディアリテラシー教育が浸透していたならば今回の解散総選挙の結果も大きく異なっていたに違いない。
メディア・政府に潜む作為や操作は、当然当事者であるメディアや政府側からの支援を期待できない。だからこうした団体は半民半官で構成されていて、「草の根の市民活動」に趣は近い。
翻って日本の現状を考えて見るに、それは大変お粗末な状況といってよい。政府に「特命チーム」があることも「大衆操作の意図」があることも公教育で教えられる機会は皆無に近く、依然として民衆は「さまよえる群集」である事を期待されているからだ。
しかし近年日本に於いても市民・企業体からはメディア理解や選挙報道に対しての能動的な働きかけの萌芽が見える。
例えば社団法人、日本民間放送連盟は2002年から水越伸東大助教授と共に、市民間での「メディアリテラシープロジェクト」を発足させている。
市民の側からは特定非営利活動法人「FCT市民のメディア・フォーラム」でも、メディアリテラシーファシリテーター研修セミナーや、市民向けの講義、をVチップの導入検討など多数行っている。メディアウォッチ、情報開示の動き等もNGOの中で近年活発化してきている。
ただ、現状は未だ十分な対応とは言えない。
世界有数の高度情報化社会であるにも関わらず、政府の対応としては、各種審議会の答申等で「メディアリテラシー」の重要性について「提言」しただけである。具体的な取り組みは見当たらず、郵政省、文部省において、方向性を検討している状況に留まっている。
教育の場では、各教科や「総合的な学習の時間」において、コンピュータやインターネットを積極的に活用することとしている。また、中学校の「技術・家庭」や、平成15年度から高等学校に導入される教科「情報」を通じて、「情報活用能力」の各学校段階を通じた体系的な育成をはかっていく事としている。
が、しかしそうした内容にも他の先進国に比べると偏りや不備が残ってしまう。
一部の先進的な活動を誇る自治体(代表的な所では静岡総合教育センターなど)による取り組みを、より広範囲のメディアに取り上げる事で、国単位の法整備を行ってゆく事が急務である。
そして学校教育を終了した成人やシニア層に対しても、公共放送を用いる等して積極的にメディアリテラシーの存在意義をアピールしてゆく必要性があると思われる。
一方、今回の総選挙に於いて、民間や企業は活発な活動を行っていた。
例えばブログやSNSを使って投票率をあげようと、企業家たちが「YES! PROJECT」を立ち上げ、若者に投票を呼びかけた。
さらに、多くのブロガー(ブログの管理人)が自身のブログに、政策や投票行動について書き込んだ。
また、「はてな」というサイトでは「総選挙はてな」というコンテンツを立ち上げ、予測市場と呼ばれる日本では耳慣れない仕組みを利用。政党を会社に見立てて株式(アイデアポイント)を発行、その株式をユーザーが取り引きすることで政党の時価総額=議席数を予測するサービスを行った。
さらに古参サイトでは候補者情報、ネット世論調査などの選挙情報をインターネット上で紹介しているサイト「ELECTION(エレクション)」も昨年からは、政治家のブログポータルを開始した。
こうした選挙に対する的確な情報を得ようとする市民単位の活動が、世論の活性化に繋がる。
また断裂された個を「新たな公共」の場に引き戻し、情報に対するクリティカルな視座を養う事になるのである。
当面政府や行政の対応に期待が持てない以上、こうした民間のマンパワーをどこまで広げてゆく事が出来るかが、今までの悪しき情報の流れを断ち切る事が出来るかどうかの境界線となるだろう。
■現代に生きる生と、その限界。希望。(論点整理
現代に於いて、分断された個はもう一度市民へと帰り、型にはめられた後にまた、分断された「公」に帰るといい。
こうした工程を経て、はじめて私たちは何とかお粗末ながらも個人の価値観に基づいた選択という「自由」を手に入れる事が出来るのだ。
先に述べたように個は何処までいっても個であり、孤独だ。
しかし、その個をすら認められない生を生きて、どうする。
その事に気付かない生は、少なくとも世界の箱庭の果てを知らずに、その中で安住し、死んでいく。
個々の生の力は微々たるものかもしれないが、それらが、つんのめりながら結集(言い方が悪いが)したとき、生は少なくとも今よりは少し、まともになっているに違いない。