大きな物語の喪失と記号論的消費
■ポストモダン社会に於ける我々の現状と、消費という表象の問題点についての考察
19世紀後半から20世紀前半にかけて、人間はその存在を裸のまま明るみにだした。
ニーチェは「神は死んだ」と述べて宗教的価値観を根底から覆した。
フロイトの無意識の発見によって、人間は単一的自己観の幻想を打ち砕かれた。
ダーウィン以降の進化論によって歴史の必然性は瓦解した。
マルクス主義の失敗によって「大文字の理念」は空洞化した。
レヴィ・ストロースの「悲しき熱帯」によって文明神話は灰燼に帰した。そして21世紀の国民国家は、19世紀にヘーゲルが描き出したような、全体性を体現する存在ではなくなった。
インフラとしての国家は機能し続けるが、その機能はかつてなく無意識化され不可視化されるようになる。そして、人々の社会生活は、脱国家的な多様なコミュニティーに多重帰属しつつ行われるようになる。
フランスの哲学者、リオタールはこれを「全体性の消失」と言った。
宗教的、社会的全体感(第四次集団)が解体された現代社会に於いては、社会学的な第一次集団(家族所属など)、第二次集団(会社所属など)や第三次集団(個々のアイデンティティなど)の次元で自己を支えなくてはならなくなってしまった。
文化は断片化し、島宇宙化された個々のコミュニティーに帰属する事による、良い意味での「自由」、悪い意味での「脆い土台」を手に入れた。
ドストエフスキーは「もし神が存在しないとしたら、全てが許されるだろう」と書いた。
しかし、したがって人間は孤独なのであり、不安定な存在であるのだ。
そうした思想や良心が空洞化した最中にあっても現に世界は動く。それでも世界は回る。そして世界は経済によって支えられている。
そう、サルトルが「実存は本質に先立つ」言ったように。
しかし、庶民レベルで起こる「流行」は依然として、「意味の消費(投票行動も含め)」であり続ける。そう、消費とは「意味」の「消費」に他ならないのだ。その「意味」とはこれまで述べた、自己実現や孤独の解消などの欲望への刺激で形づくられている。
そして「意味化」した商品はやがて、自己の豊かさやライフスタイルを投影する為の「記号」となる。こうして流行(投票行動も含む)はボードリヤールが述べたように「手段的なコードに基づいた、意味付けとコミュニケーションの過程」となり、帰属集団不在の代替物としてのコミュニケーションになるのである。
社会学者の宮台真司はこうした状況に於いて私たちに「まったり」と「濃度に満ちた」生活を送るよう勧める。
しかし、それでは公共操作術や情報操作に対応する危険性を拭い去る事はできない(宮台氏の今の言説はまったりではなくなったが)。
大規模な広告代理店のマスプロデューサーや自民党という強大な政権与党による情報は、「差別化」という操作されたフィルターを通して、それを選択する事を「個性」として認知するように作られて私たちに発信される。
「よりあなたらしく」
「私たちが真の革新政党です」
「驚くべき新製品が今まさに発表されました」
といったようなメッセージに乗せて。
都市化、商業化の過程に於いて孤立化し、個を分断された私たちはそうした「消費のためにつくられた記号」を、相対化し批判する術を持たない。
帰属集団を持たない私たちは、そうした言葉に酷く弱い。
甘い言葉に飛びついて、三次的集団への所属感を満たす。
先に述べてきたように、そうして投影と抑圧を繰り返してゆくと人々は「教化」され、記号消費のいわばプロフェッショナルとなる。
そうなれば、もはや自分たちの消費行動を客観的に観る事など適わなくなる。
そうしてある共通する方面から供給される記号を、あたかもそれがファッションのように教化された個性が消費されてゆくと、その隘路には「画一化」が待っているだろう。
キッチュ(まがい物)やガジェット(悪趣味品)が氾濫し、ただひたすらシミュラークル(オリジナルとコピーの区別が弱くなった後の、そのどちらでもない中間形態)を量産する状態。そうした人々がもとめている「個性」は何時の間にか、リゾーム(地下茎)的な欲望の流れに当てはめられてしまっているのである。
この一連の流れの中で見えてきたもの、それは精神に於ける「全体性の喪失」と実質社会に於ける「画一化」。
逆流現象とも言えるこうした現状が今、水面下では進行しているのでないかと思う。
そうして、混乱した信念や行動をもつ人々に、さらに効果的に大衆操作術は作用しうるのである。
なにやら最近レコメンドにニューアカめいた本(ドゥ、ドゥルーズ!)ばかり載せてるなぁと思ったら!
兄やん=東浩紀でドン!
俺が東?(笑)光栄だけどさぁ(*’ー’*)宮崎とか、宮台とか、大塚あたりにいれるのは嬉しい(笑)
ちょっと議論を精査すると、俺は東浩紀みたく「動物化」とか「データベース化」とは書いてなくて。ちょっと思索の道筋が違うのかな。
どちらかとゆうとガタリ的な情報の隔絶の中でポストモダンの人々はどう機能しうるか、そしてそこにはどういった危険性があるかを示唆する存在でありたいなぁと思ったんだよね(*’ー’*)
確かに最近の若手(東とか宮台)には共感するし尊敬するなぁ。
ここにきて社会科学の方法論がしっくり思えるんだ(遅すぎるよね)。
てか、ニューアカはどちらかとゆうと、君のほうじゃないかい?(笑)
映画の趣味とかさ。
僕はニューアカに近付こうとしてめんどくさくになったやつですよ。
映画の趣味がニューアカって何でしょ?押井守ってそんな感じしますよね。見てませんけど。意外と兄やんハマるかもしんないですね。
あ、うちの教授の四方田犬彦ってそーゆう流れでしたね。
ニューアカとポストモダニストをわけてかんがえなきゃね。
確かにガタリ・ドゥールズはニューアカの原動力となりえたけど、かれらの脱構築という目下の目標より、日本の場合は「学会からの開放」的な要素が多かった(今村仁司とか浅田彰とか。余り詳しく読んでないけど)。70年代に発生したあの自由な雰囲気は90年代にオウムがアレをやってから破綻した。
ポストモダンがニューアカから発生したというより、ポストモダンからニューアカが生まれ、そして勝手に死滅したというのが正しい捉え方ではないかしら。だから、ポストモダンを日本でいうニューアカでは括れない。
押井守はすきだよ。
あの人は多分ポストモダン論者かな。
ニューアカがあったの70年代だしどちらかというと脱構築の人かなあ。
大島渚好きってかいてたよね?
かれほら、共産党員だっていうしさ。
ここまで言えば、わかるでしょ?
あとほら性表現に奔放な君の文章とか。
逆に東洋のラントリズムとかさ。
いやそこに素直に村上春樹的な捉え方も見えたりして。
でも、こう考えてみると、なんでもニューアカにできるなwww
ごめん、誤解だったかもww
あー大島渚のことでしたか。いちおう誤解を解いておくと、大島は課題で見ただけです。
ポストモダンとポストモダニズムがまた違うってんだから、ヤヤコシーですね。まぁニューアカとポストモダンを混同することはないでしょうけど。
結局下ネタしか思い付きませんからねぇ。村上春樹って指摘は鋭いですねぇ。読んでましたから昔。
「つづく」が気になるところですね。
クイックレスポンスをありがとう(*´∀`)
やっぱり!
創作をみると(文章だけだけど)、村上春樹の影がちらほらみえていたんだよね。
もちろんそれが悪いといってるわけではなくて。
春樹はまだあまり読んでいないので、卒業までに目を通したいなw
大島はそうだったんだw
いやほら地元の映画館の話のときにでてきたような…
あれは勘違いかw
ごめんごめん。
寝るのが遅れたから続きはまた今度★( ´_ゝ`)★