満たされた気がして、見た事も無い夢見た。

『日が射した気がして、「見た事も無い未明」見てるのさ。』
…はいはい。さあ、もうそろそろカウントをとりたいと思います。

バンドを始めて、六年余り、僕は一体何回のカウントをとっただろうか。
思えば、殆ど全ての曲の始まりはカウントからだった。
そういえば、僕のカウントが印象的だったと言ってくれた人もいたね。

人生はライブだ。
ライブが人生とするならば、今まではまだ、個人練。
そしてその後に仲間とスタジオに入った所だ。
さしずめ、深夜パックって所かな。
ずっと夜通しダンスしてたもんな。
僕らはスタジオで、全力で音を鳴らしていた。
汗をかいて、笑って。
楽器を持つ人も、持たなかった人も。
それぞれの音をもっていた。
必死で練習した。

大人になる事から逃げる為に始めた筈の音楽に、何時の間にか僕らは育てられて大人になっていたんだ。

練習は済んだ。

僕らは今から、それぞれのステージに立つ。
ライブハウスは違うけど、みんな同じ日にライブをしているんだ。
エフェクターを繋ぎ、ジャックをアンプに差し込み、チューニングを終えた。
マイクのスイッチを入れた。
ドラムのセッティングを終えた。
最高の仲間とステージに立った。
学生生活の想い出という、最高のSEが流れた。

僕らは今、ステージに立った。
何処にいても、何をしていても、どんなに離れていても、時間が経っても、
「あいつ相変わらず、あんな所であんな音鳴らしてるよ。」
と、笑って、けなして、誇りたい。

「アイツまだリズム跳ねてやがるぜ」
「相変わらずフックの効いたベースを弾くねえ。」
「うわ、あいつまた変態的なギターソロ弾いてる!」
てな具合にね。
それぞれの人生の音を聴きたい。
「掻き鳴らすコード」を
「粋なゴーストノート」を
「直線的なビート」を
「胸に響く美しいリフ」を

「心躍るカッティング」を
「目の醒めるようなリムショット」を
「感傷的な歌」を

「攻撃的な歌詞」を
「斜に構えた立ち位置」を
「染み入るようなメロディー」を
「浮遊するディレイ」を

「疾走する感覚」を

「腰に来るようセットされたキーボード」を

「つま先で踏み混むエフェクター」を
「繊細なフレーズ」を
「スタジオのあの一体感」を
「次へ進む為のブレイク」を
「青春の轟音」を

「癖になる変拍子」を
「グッと来るフィルイン」を

「漣のようなマーチ」を
「振り返ったときの笑顔」を

「奇跡の様なグルーヴ」を
みんな、見せてくれよ。
それぞれのライブで。

仲間の、先輩の、後輩の、背中を見たい。
そして自分も、背中を見られている事を意識して、頑張りたい。
どこにいてもみんながどこかで、頑張っている。
いい音を鳴らしている。
その事を思うと、僕は頑張れる気がします。
だってドラムがリズム乱しちゃ、ダメだからね。
メソメソする時は終わります。

ライブはもう今まさに始まる。

スポットライトがあたった。
カンカン!

さあ、みんな準備はいいかな?
ギター君。
ボーカルさん。
ベースの相棒!

いつものフォーカウントでいいかな?
みんな、いつもどうりにいこう。
「ライブ」は慣れっこだ。

さあ、行こう!

何も恐くない。

…!

宇宙最後の三分間

まるで、この数日間は僕にとって幻のようだ。

終わる事が無いように思えた、幻のような宴が終わる。

夜が白けてゆく。

わかってる。
ただ、だから、最後の三分待ってくれ。

Take The A Train.

ただ、遠くへと行きたくなったんだ。

そこにあまり深い理由はない。

時が過ぎていくのが嫌だったのか、いずれ来る何かからの逃避だったのか。

ただ、遠くへ。
残された時間を、忘れて。
遠くへ。
走りだしたかったんだ。

全力で、遠くへ。

新宿で飲んで、明け方まで友達の家にいて、その勢いで大学を訪れ、部室でノートに最後の絵を書いて、そしてカードを解約し、タバコを吸って、品川まで歩き、ちょっと空いている東海道線に飛び乗って、ゆるやかな夕日を見ながら、帰る。
「明日、行こう。遠くへ。」

そう思った時、一人の友人にメールした。

「明日、京都に行かない?」
すると、友人

「寧ろ今日行かない?」

と、言うわけで、夕方にメールして、その後10時には八重洲口から、「青春ドリーム奈良二号」に乗り込み、次の日六時半には京都にいた。

と、言う事で、友人は、僕と一緒に走ってくれた。
京都の街を、僕らは全力で走り、笑った。
バカと、知が交互に現れるような会話をし、
最高のタイミングで全ては進行し、
全てうまい料理で
人のいい方とばかりであった。

感じた事、
思った事、
ゴマンとあるけど、敢えて記しません。

僕達は走り続けました。
全力で共に走ってくれる友がいました。
ただ、それだけ。

僕らは、いつものように笑ってやり過ごした。
ただ、いつもと違う事があった。
この句に、心のどこかで薄ら寒さを感じていた。

僕らは、計24時間、走り続け、泥のように眠った。
最期のその瞬間まで、全力で生きたいものだ。

瞬間は、いつも美しく、そして儚い。

涙のキッス

酩酊してます自分。
弱音吐いていいすか?
泣いたりしたらだめですか?
男だから泣かないけど。
自分まだまだ学生やりたいっすわ。
隣のリ~マンみたく、シワシワのスーツきて、崩れるように寝て、音楽と思想を忘れて、ただ安住を求めて、ただ平凡を求めて、欲望に負けたりして、風俗にいったりして、浮気を正当化したりして、ただ死ぬまで死ぬ事を考えて、健康と出世と金を考えたりして、世俗にまみれたりして、世俗の中がすべてだと思ったりして、生きたくないっすわ。
本音ゆうと、けど最低限の金は欲しいっすわ。
崖っぷちですよ。
社会
仲間まだいないすよ。
不安すよ
暗闇で無い階段を踏み出して階段が無かったあの喪失感のような。
電気がない暗闇に手探りだけではいりこみ電球の紐を探す。
あの感じ。
不安ですわ。
覚悟はまだないっすわ。
泣いたりしないで、大人になれないっすわ。
リ~マンみんなつらそうすわ。
立派ですけど。
つらそうっすわ。
朝まで思想を語ったりとか
生きる意味考えたりとか
ただバカ騒ぎしたりとか
恋愛相談したりとか
綺麗な朝焼けみたりとか
スタジオあきずにはいったりとか
一服したりとか
つらかったけど、自由でしたわ。
つらかったけど、自由でしたわ。
明日とか
家族とか
全部から自由でしたわ
音が鳴ってて
親友がいて、
それでいかったんすわ
大学とか、ちょっとした拘束がまた逆に自由でしたわ。
みんな良い奴でしたわ。
友人はみんなどこか弱い奴ばかりでしたわ。
どこか欠落してたり、してましたわ。
妄言を許してもらえば、完璧な奴は俺の友達には1人もいなかったすわ。
俺が友達と思ってる奴は。
欠落もまた美しかったですわ。
いや、欠落が、美しかったのか。
みんなそれぞれに、俺の知らない、
罪も
罰も
破廉恥も
あるだろうと思うけど
そんなん些細なもんすわ。
みんな美しかったですもの。
俺が私利利欲とか無い奴ばかりとつるんできた自信があるからかしら、
みんな良い奴でしたわ。
素敵でしたわ
裏切られた事もありましたが
美しかったですわ
心から美しかったですわ
俺の人生のただ一つの
誇りですわ
私利私欲
作為

が嫌いな俺としては。
美しかったすわ。
俺はみんなを裏切りたくはないすわ
裏切るときには死にたいすわ
ただ逆に良い思い出話だから、つらいすわ。
世間はみんな酷い人ばかりじゃない事わかりますが、怖いすわ
俺、美しい世界しか見なかったですもの。
けど金がないと生きていけない
…あ、となりのOLが、酔っ払って倒れた(笑)
立っててつんのめった
つらいんだね
頑張ってるね
立派だね
いかないで~♪
今は思い出に残る一時♪
隣のリ~マンみたいにいきていくしかないのか
サザンが身に滲みます。
ブルースとか演歌とか。
男とか。
大学に悔いはない。
ただ、まだ居たい。
本音言って悪い?
けど私、行きます。
多分明日、発ちます。
こんな泣き言あまりにも無様だから
すぐに消すけどさ。
命の限りに音楽を、
恋愛を
友情を
してたよ
俺は、ゆくよ
今生の別れじゃないけれども
明日俺は去るよ

「モテるモテない」の性格類型

【提起】
何故に異性にモテるやつはモテて、モテないやつはトコトンモテないか、その鍵を掴む為、ひとつの仮説をここに提示したい。
【前提】
異性との交友に限らず、人間関係にはあるひとつの要素が介入する。
それはエゴイズムである。
作為の多寡に限らず人間は誰しもエゴイズムを有している。友好関係を例にとれば、例えば気の合う友人と一緒にいると、とりあえず自分の感情は害される事はない。
言い換えれば自己の快楽を追求する行為の果ての友人とも言える。
勿論、金銭関係や異性交遊に於ける授受をもくろんだ作為的な交遊関係も、エゴイズムと見なす。
こうした構造の中で、人は妥協点をみつけ、授受をし、交友を図り、関係性を発展してゆく。
「異性にモテる」とゆう現状は、複雑の要素の蓄積であり、一仮説の元にその原因を特定する事は出来ないが、その大きな一要素として、コミュニケーション能力が挙げれる事には異論はないだろう。以下はそれを二極にわけて分類したものである。
【仮説】
①外交的エゴイズム所持
…外交的エゴイズムとは、関係性の初期段階及び、発展段階、成熟段階に於いて、自己の快楽を外部に求め、欲求の昇華をする性格類型である。
この性格を持ち合わせた者は、自己の欲求の補填の為、積極的に外部との連絡を図り、外部を巻き込んで大きな潮流を起こす。(外部とは幅広く適用できるが、本稿でいう外部とは異性と解釈してよい)
但し、この類型では自己のみでは欲求の担保がなされない為、常に外部との連絡に依存するという脆い側面を兼ね備えている。
必然的に、常に外部に異性及び、友人など社会集団がいる事となり、友人は異性を引き寄せ、「モテて」いる事となる。若年期に於いては、この性格は嫌われる場合もあるが、反省と改善の錬磨によってコミュニケーション能力は必然的に高くなる。
(例)
・なにかしらの「長」社長、会長、主宰者、発起人、幹事、ギタリスト、ボーカリスト、など
・異性と話す事になによりの喜びを得る人…友人や異性は自己像の鏡となる。コミュニケーションによって、自己像をより高尚なものにする為に、異性を次々に乗り換えてゆく。
・自分の主張を他人の気持ちを考えずに言える人
・経済エゴイズムもこれに入る
②内向的エゴイズム所持
…内向的エゴイズムとは、エゴイズムの向く方向性が前者とは逆になる。
つまり、内面方向に快楽を追求する事で欲求の昇華を得る。他者に働きかける事に抵抗があり、自己の内部で快楽が得られれば「集団の秩序、他人の感情は関係がない」とゆう、エゴイズムである。
若しくは、他人の感情をおもんばかる行為そのものに、快楽の昇華を感じる人間も、このエゴイズムの一種だ。
兎に角、このパターンの人間は、内向的であり、社交の場で「誰にも迷惑かけてないんだからそれでいいじゃん」とゆう論理を振りかざし、他人を無視したり、趣味や、主義に没頭する事が、正義であるかのように思っている。
必然的に、外出も減り、友好関係もごく少数の限られたものとなり、「モテない」。
反面、自慰行為やそれに準ずる行為(趣味)で、関係性への欲求が満たされる為、女性と接する事を可及的速やかには必要としない強さを持つ。
しかしモテない。
(例)
・殆どのドラマー
・ニート
・根暗
・職人
③内外交的エゴイズム
内向的に始まって、外交的に終わるエゴイズム。
内向的なエゴイズムは、一歩、踏み出すと外交的エゴイズムに似た概念になる事がある。
他人の喜びを、内向的なエゴイズムとするあまり、外交的に接するようになるタイプ。
言い換えれば、「よい事をしている自分」に、快楽を得るタイプ。
博愛主義に近い。
(例)
・ガンジー
・医師
・警察官
・自衛官
・家庭をもつ親
④外内向的エゴイズム
③の反対。
反対に外交的エゴイズムを、推し進めていくと、あるものを独占的に支配する欲求に発生する
浅い外部の環境には限界があると気付いた場合、自己の内面に外部を取り入れてその充足を求めようとする。
1対1のコミュニケーションに落ち着く場合もあるが、外部を全て手に入れようとする事もある。
(例)
・全体主義
・ヒトラー
・政治一般
・宗教一般
・浮気な人の改心後
【グラフ】
典型的な①と②に、伝統的嗜好型(従来どうりの道徳心が強い)と進歩的嗜好型(流動的を是とする)を加え、座標にして示してみると、こうなる。
(図)

060317_0313~0001

座標が、右斜めに行けばいくほど恋人と長く続き、反対はすぐに終わってしまう傾向にある。
しかし、座標が右斜め上方面に当たる人は、関係はあまり長続きはしないが、相手に不足しないという観点から見てすなわち「モテる」。
右斜め下の人は、外交的ではあるが、伝統的嗜好性な為、恋人及び友人をとっかえひっかえするのに強い抵抗を覚える為、関係は長続きする。
反対に左方面の人は酷い。
左斜め上は、内面的であるはあるが、流動的を是とするので一般的に言う所の変態とか「オタク」とかソレに近い状態になる。
左斜め下に至っては、内面的で伝統的であるが故に、何に対しても心を開く事が出来ない。対人関係を拒絶し、反動形成を生み、妄想を強める傾向にある。対人関係が出来たときはそれを守る事に全力を尽くし、それがなによりの価値だと思う傾向がある。
【結論】
少々穿った見方をしてしまったが、どの立場にも大して肩入れしない立場から、「モテる」ひいては、対人関係一般の関係性に於けるカラクリを万人に共通するファクターであるエゴイズムという変数(?)を使って分析してみた。
こうして見てみるとエゴイズムは各個人の行動に関して、重大な決定要因となっており、全ての「やる気」の原動力になっている事が解る。
どんな形でも存在する各個人のエゴイズムをどの噴火口から噴出させるかによって、ライフスタイルや経済状況などが、如何様にでも変化する。
そしてその噴出の形は各個人の意思と、努力に任されている事は言うまでも無い。
この時代、殆ど誰でも「自分の気持ち良いように」生きている(人権に反する強要や強制を除く)。
怠惰に生きるのが気持ち良いのも。自分を蔑むのが気持ちいいのも。夢を追うのが気持ち良いのも。窮地に立たされている自分に酔うのも。親を養う事に優越感を得るのも。
即ちこれ、「自己愛」と「エゴイズム」の狭間にある物。
「気持ちよさ」の選択と、質の向上が今回のエゴイズム分析と噴出の方向性についての分析で明るみに為り、それがこれからの人生の一つの指針となればいいと思う。

「公」に学び、「個」に帰る

(つづき)
■相対主義への対抗としての決断主義
混迷した第一次大戦前のワイマール期ドイツは、価値相対主義の真っ只中にあった。確固たる言説は広まらず、人々は絶対的なものを待ち望んでいた。
そんな中、人々が待ち望んだ憲法を提示したのが憲法学者カール・シュミットである。
彼は憲法の中に「決断主義」を取り入れ、友国と敵国との峻別を行った。
簡単に言えば、「価値の淘汰」を行ったのである。
そうして改定され、引き継がれたワイマール憲法は鉄血宰相ビスマルクの元で活用され、ドイツ帝国発展の礎となったが、その後決断主義は誤用され、悪しきナチスの悪夢を生む事となる。
元官僚の学者、原田武夫は近年の劇場型政治の類似点を指摘し、その危険性を煽っている。
現代の日本と、ワイマール期ドイツの環境は余りにも違う。
しかし確かに、小泉劇場は今までの官僚型民主主義の「価値相対主義」を打破し、人々が待ち望んでいた「決断主義」を提示した。
私はそこに決断主義への単なる「憧れ」があったような気がしてならない。
単なる憧れで国は動かないだろう。
元ジャーナリストのウォルター・リップマンは、第一の市民階級として専門知識を持つ特別階級を想定し、それ以外の大部分を「とまどえる群れ」と呼んでいる。リップマンによると、彼らの役割は「観客」になることであり、行動に参加することではない。「時々、特別階級のだれかに支持を表明すること(選挙)は認めるが、それが終われば観客に戻って、支持しただれかの行動を傍観していればよい。」と述べる観客民主主義が小泉方民主主義には明らかに存在する。
この「とまどえる群れ」こそ、教化・同調傾向が強いため、操作を最も受け易い。
公益を特別な人間に任せ、肉感やリアリティを消した宣伝による情報の徹底的な記号化によって、人々に同意を取り付けた。
「個性」や「革新」といったお株を奪われた民主党と、強烈な武器を手に入れた自民党。
こうした背景が、今回の無党派層の動向に関係し、選挙結果にも大きな影響を与えたに違いない。
その背後には巨大な外資PR会社があり「ある何らかの作為」をもって、今回考察したような手法を用いていたとしたら、あまりいい気持ちがするものではない。
評論家の宮崎哲弥はこうした現状を実に的確にこう示している。
マスメディアと世論はまるで向かい合わせた二枚の鏡のように主体性を欠いたまま反射を繰り返すうちに、ある政治的パワーを次第に隆起する構造に陥っている。この構造こそが高度情報化を遂げた社会に固有のメディアポリティクス・テレポリティクスの概念である。メディアと世論の共振によって現出する情報空間は基本的に閉ざされており、外部性を欠く為、一旦暴走し始めると制御が効かなくなる。新しい形のファシズムが出現するとすれば、こうした構造の中から生まれるであろう』と。
こうした政治レベルでのマスの流れはいずれ、文化レベルでの対立をも引き起こすだろう。
現にアメリカの資本<帝国>主義はこうした現状の中で飽和点を向かえ動物化した。
そして国外へとその矛先を向けている。私たちが持つこうした文化的特質はアメリカの政治学者サミュエル・ハンチントンが指摘するような「文明の衝突」状態、ひいては紛争状態に陥る危険性を孕んでいるのである。

■社会と個人への処方箋

驚くべき事に英国では、「English」(日本での「国語」に相当)の時間に、メディアリテラシーの学習を設けている。そしてさらに英国映画協会が、教材開発、教員トレーニングなどにおいて、全面的に協力している。
カナダの小学校でも「Language」あるいは「English」(同じく日本の国語)は、「読む」、「書く」、「口頭と映像によるコミュニケーション」の3本柱からなっており、メディアリテラシー教育が義務付けられている。
「絵になる」風景だけを取り出す傾向、番組の結論に近いコメントだけを取り出す傾向といった、作り手の都合を生徒も自分で感じる。テレビ局など作り手の意識を垣間見ることで、今後の自分の視聴がより客観的になることが期待できるのである。そうしたビデオ制作実習のためには、教員トレーニングが不可欠で、英国映画 協会は、そこも支援している。
こうした教育を通して見てみると、私が今まで考察をしてきた「記号化による画一化」という危機も回避できるように思う。また、メディアリテラシー教育が浸透していたならば今回の解散総選挙の結果も大きく異なっていたに違いない。
メディア・政府に潜む作為や操作は、当然当事者であるメディアや政府側からの支援を期待できない。だからこうした団体は半民半官で構成されていて、「草の根の市民活動」に趣は近い。
翻って日本の現状を考えて見るに、それは大変お粗末な状況といってよい。政府に「特命チーム」があることも「大衆操作の意図」があることも公教育で教えられる機会は皆無に近く、依然として民衆は「さまよえる群集」である事を期待されているからだ。
しかし近年日本に於いても市民・企業体からはメディア理解や選挙報道に対しての能動的な働きかけの萌芽が見える。
例えば社団法人、日本民間放送連盟は2002年から水越伸東大助教授と共に、市民間での「メディアリテラシープロジェクト」を発足させている。
市民の側からは特定非営利活動法人「FCT市民のメディア・フォーラム」でも、メディアリテラシーファシリテーター研修セミナーや、市民向けの講義、をVチップの導入検討など多数行っている。メディアウォッチ、情報開示の動き等もNGOの中で近年活発化してきている。
ただ、現状は未だ十分な対応とは言えない。
世界有数の高度情報化社会であるにも関わらず、政府の対応としては、各種審議会の答申等で「メディアリテラシー」の重要性について「提言」しただけである。具体的な取り組みは見当たらず、郵政省、文部省において、方向性を検討している状況に留まっている。
教育の場では、各教科や「総合的な学習の時間」において、コンピュータやインターネットを積極的に活用することとしている。また、中学校の「技術・家庭」や、平成15年度から高等学校に導入される教科「情報」を通じて、「情報活用能力」の各学校段階を通じた体系的な育成をはかっていく事としている。
が、しかしそうした内容にも他の先進国に比べると偏りや不備が残ってしまう。
一部の先進的な活動を誇る自治体(代表的な所では静岡総合教育センターなど)による取り組みを、より広範囲のメディアに取り上げる事で、国単位の法整備を行ってゆく事が急務である。
そして学校教育を終了した成人やシニア層に対しても、公共放送を用いる等して積極的にメディアリテラシーの存在意義をアピールしてゆく必要性があると思われる。
一方、今回の総選挙に於いて、民間や企業は活発な活動を行っていた。
例えばブログやSNSを使って投票率をあげようと、企業家たちが「YES! PROJECT」を立ち上げ、若者に投票を呼びかけた。
さらに、多くのブロガー(ブログの管理人)が自身のブログに、政策や投票行動について書き込んだ。
また、「はてな」というサイトでは「総選挙はてな」というコンテンツを立ち上げ、予測市場と呼ばれる日本では耳慣れない仕組みを利用。政党を会社に見立てて株式(アイデアポイント)を発行、その株式をユーザーが取り引きすることで政党の時価総額=議席数を予測するサービスを行った。
さらに古参サイトでは候補者情報、ネット世論調査などの選挙情報をインターネット上で紹介しているサイト「ELECTION(エレクション)」も昨年からは、政治家のブログポータルを開始した。
こうした選挙に対する的確な情報を得ようとする市民単位の活動が、世論の活性化に繋がる。
また断裂された個を「新たな公共」の場に引き戻し、情報に対するクリティカルな視座を養う事になるのである。
当面政府や行政の対応に期待が持てない以上、こうした民間のマンパワーをどこまで広げてゆく事が出来るかが、今までの悪しき情報の流れを断ち切る事が出来るかどうかの境界線となるだろう。

■現代に生きる生と、その限界。希望。(論点整理

現代に於いて、分断された個はもう一度市民へと帰り、型にはめられた後にまた、分断された「公」に帰るといい。
こうした工程を経て、はじめて私たちは何とかお粗末ながらも個人の価値観に基づいた選択という「自由」を手に入れる事が出来るのだ。
先に述べたように個は何処までいっても個であり、孤独だ。
しかし、その個をすら認められない生を生きて、どうする。
その事に気付かない生は、少なくとも世界の箱庭の果てを知らずに、その中で安住し、死んでいく。
個々の生の力は微々たるものかもしれないが、それらが、つんのめりながら結集(言い方が悪いが)したとき、生は少なくとも今よりは少し、まともになっているに違いない。

大きな物語の喪失と記号論的消費

■ポストモダン社会に於ける我々の現状と、消費という表象の問題点についての考察

19世紀後半から20世紀前半にかけて、人間はその存在を裸のまま明るみにだした。

ニーチェは「神は死んだ」と述べて宗教的価値観を根底から覆した。

フロイトの無意識の発見によって、人間は単一的自己観の幻想を打ち砕かれた。

ダーウィン以降の進化論によって歴史の必然性は瓦解した。

マルクス主義の失敗によって「大文字の理念」は空洞化した。

レヴィ・ストロースの「悲しき熱帯」によって文明神話は灰燼に帰した。そして21世紀の国民国家は、19世紀にヘーゲルが描き出したような、全体性を体現する存在ではなくなった。

インフラとしての国家は機能し続けるが、その機能はかつてなく無意識化され不可視化されるようになる。そして、人々の社会生活は、脱国家的な多様なコミュニティーに多重帰属しつつ行われるようになる。

フランスの哲学者、リオタールはこれを「全体性の消失」と言った。
宗教的、社会的全体感(第四次集団)が解体された現代社会に於いては、社会学的な第一次集団(家族所属など)、第二次集団(会社所属など)や第三次集団(個々のアイデンティティなど)の次元で自己を支えなくてはならなくなってしまった。

文化は断片化し、島宇宙化された個々のコミュニティーに帰属する事による、良い意味での「自由」、悪い意味での「脆い土台」を手に入れた。
ドストエフスキーは「もし神が存在しないとしたら、全てが許されるだろう」と書いた。

しかし、したがって人間は孤独なのであり、不安定な存在であるのだ。
そうした思想や良心が空洞化した最中にあっても現に世界は動く。それでも世界は回る。そして世界は経済によって支えられている。

そう、サルトルが「実存は本質に先立つ」言ったように。

しかし、庶民レベルで起こる「流行」は依然として、「意味の消費(投票行動も含め)」であり続ける。そう、消費とは「意味」の「消費」に他ならないのだ。その「意味」とはこれまで述べた、自己実現や孤独の解消などの欲望への刺激で形づくられている。

そして「意味化」した商品はやがて、自己の豊かさやライフスタイルを投影する為の「記号」となる。こうして流行(投票行動も含む)はボードリヤールが述べたように「手段的なコードに基づいた、意味付けとコミュニケーションの過程」となり、帰属集団不在の代替物としてのコミュニケーションになるのである。
社会学者の宮台真司はこうした状況に於いて私たちに「まったり」と「濃度に満ちた」生活を送るよう勧める。

しかし、それでは公共操作術や情報操作に対応する危険性を拭い去る事はできない(宮台氏の今の言説はまったりではなくなったが)。

大規模な広告代理店のマスプロデューサーや自民党という強大な政権与党による情報は、「差別化」という操作されたフィルターを通して、それを選択する事を「個性」として認知するように作られて私たちに発信される。
「よりあなたらしく」
「私たちが真の革新政党です」
「驚くべき新製品が今まさに発表されました」
といったようなメッセージに乗せて。
都市化、商業化の過程に於いて孤立化し、個を分断された私たちはそうした「消費のためにつくられた記号」を、相対化し批判する術を持たない。

帰属集団を持たない私たちは、そうした言葉に酷く弱い。
甘い言葉に飛びついて、三次的集団への所属感を満たす。

先に述べてきたように、そうして投影と抑圧を繰り返してゆくと人々は「教化」され、記号消費のいわばプロフェッショナルとなる。
そうなれば、もはや自分たちの消費行動を客観的に観る事など適わなくなる。
そうしてある共通する方面から供給される記号を、あたかもそれがファッションのように教化された個性が消費されてゆくと、その隘路には「画一化」が待っているだろう。

キッチュ(まがい物)やガジェット(悪趣味品)が氾濫し、ただひたすらシミュラークル(オリジナルとコピーの区別が弱くなった後の、そのどちらでもない中間形態)を量産する状態。そうした人々がもとめている「個性」は何時の間にか、リゾーム(地下茎)的な欲望の流れに当てはめられてしまっているのである。

この一連の流れの中で見えてきたもの、それは精神に於ける「全体性の喪失」と実質社会に於ける「画一化」。
逆流現象とも言えるこうした現状が今、水面下では進行しているのでないかと思う。

そうして、混乱した信念や行動をもつ人々に、さらに効果的に大衆操作術は作用しうるのである。

命日

三年前の冬、親戚に買ってもらったお気に入りのPaul Smith、ポールスミスの時計を無くした。
今まで、何度なくなったと思っても見つかった時計だ。
僕はどんな時でも外せば無意識にカバンの中に入れていたから。

先月の28日、久々のバンド練習があった(横浜ゲートウェイの5番スタジオです。偶然ココを見て、見つけた方返してくれたら幸いです)。

汗をかくと金属がどうしても違和感を起こさせるから、僕はスタジオでドラムを叩くときはいつも時計を外す癖がある。
いつもそれでスタジオを出たあとなくしたと思って冷やりとするものだが、それでもいつもは奴はカバンの中からひょっこりでてきた。
いつもいつもでてきた。

何を勘違いしたのか、それが当然の縁だと思っていたんだ。

アイツはいつもでてくるんだ。

けど、今回は違った。

でてこなかった。

概して「当然の縁」は何時の間にかあっけなく終わりを告げるものだ。

大事なものって何時も、無くした時のその喪失感で大切さを気付くよね。
今回もそう。
喪失感が凄い。
「胸にぽっかりと大きな穴が空いちまった(とら)」。

思ってみればあの時計は僕の大学生活の大半を僕と一緒に過ごしてきた時計だった。
あの時計に意思があるとするならば、僕の大学生活の一番の証人だ(メガネは三代目だからね)。

勉強していたときも。
雨に降られたときも。
宮古島の熱気に晒された時も。
筋トレしてたときも。
就職活動していた時も。
練習していた時も。
バイトしていた時も。

全ての飲み会で。
全ての旅で。
全てのライブで。
あの時計はひんやりとして僕の腕にあった。
ただ黙って僕の青春の時間を刻々と刻んでいた。
時間を。
時間を見てくれていた。
僕と共にいた。
ああ。
僕は馬鹿だ。
もっと大切にしていればよかった。
大切にしていればこんな思いはしなくて済んだのに。
こんな喪失感を味わう事はなかったのに。
大きな大きな瑕疵。
僕の大学生活に於ける思い出の証人は、いなくなった。
当事者である、僕だけになった

証人が当事者しかいなくなり
大学生活は終わる。

僕の後悔の念をもって時計を追悼したい。

本当に、本当に大切だった!

彼の失踪を無駄にしないために論理を飛躍しよう。
いつかは森羅万象、全てが消えてなくなる。
僕の大切なもの全て。

いつかその日がくるまで、僕はこの消え入りそうな少ない時間を、関係を貪欲に、味わい尽くしたい。
せめてその前に自分が死にたいと思うのは我儘だろうか。
我儘だ。

人である以上、喪失と戦わなければならない。

大切な物や人に喪失感を味あわせない為に、喪失感と。
僕達は自らの意識が無くなるその日まで、周りの愛すべきものの崩壊を見届けなければならない。
その業を僕らは背負っている。

僕らはそう、世界の全てと失う為に出会ったのだ。
ただ、出会った事もまた、事実だ。

いや、出会ったことだけが唯一の紛う事なき希望だ。