妄執
「意味が見つからないから良き生を送れないのではなく、 良き生を送れないからこそ意味にすがるのだ」(『生の歓喜』ニーチェ)
の一言に尽きる(この至言は前にも紹介したけれども)。
自分は、多分生が迸るほどの良き生を送れていなかったのかもしれない。
「相対主義だ、価値だ」云々。
時たま自分は、呑むと管を巻いて「意味」という毒を周囲に撒き散らすことがある(つい何年前までは飲まなくても)。
良き生を送れている人に、「意味」なんて問うてもナンセンスだ。
良き生を送っている人に「意味」は不要だから。
「自己」のみで強く立脚できるからだ。
昨日は、恩師に見事に論破された。
いや、論破というか、たしなめられた。
ところかまわず管を巻く僕を、ばっさりと。
恩師はやっぱり、ずっと先を走っていた。
定期的に誰かに「論破」されないとアホな僕はきっと腐敗する。
アホは高飛車になる自分を一回溶かしてまた新しい鋳型に流し込む作業が不可欠なんです。
「恩師」に「恩師」をいつまでも期待する、僕の至らなさを再認識。
なんつーか、まだ、自分、努力がたりん。
努力をして、未来、それでもまだ「意味」を求めていたのなら、それはまだ「努力」が足りんので、まだ凡夫なんです。
「濃度」を獲得して「良き生」に至る道は、まだ遠い。
それだけに、まだ人生は楽しい。
源信僧都「妄念はもとより凡夫の自体なり」