懐古
今日は、学校にゆくまえに朝早く起きて歯医者に行った。
終わって暫く時間があったので、久しぶりに地元を自転車でウロウロした。
中学の頃、初めて好きになった人と遊んだ小さな小さな公園の、二人で遊んだ小さな回るコーヒーカップの遊技機が、錆びた鉄の芯だけになって、ただ何もないところにただ一本で立っていた。
割と通る道だったのに、今の今まで気付かなかった。
冬の日が仄かに暖かい昼下がりである。辺りは無音。
――自分は、何か大切なものをどこかに置き忘れてきたんじゃないか。
自分は幼い頃、もっと環境の変化に心の機微をあわせる事ができた。
季節の移り変わり、日の陰り、虫の生態、隣人の感情、未熟ゆえの孤独、空気の匂い、土の肌触り…
それらを総合して得、全身で感じる「時の流れ」。
友達と砂山にトンネルを作って貫通した時の友人の手の生々しさとか、
はじめて張った霜を踏みつける時のときめきとか
一人で夕暮れ時に帰るときのどこかの家から流れてくる焼き魚のたまらなく良い臭いの切なさとか
カエルをてずかみにしてペットとして飼ってみちゃう無邪気とか
鬼ごっこで顔を地面に押しつけてまで必死で隠れた時の、土の近さ、大地の存在感とか。
陰が小さくなるくらい真上にある真夏の太陽の下、蝉の鳴き声とともに煩雑と聞こえてくる「いいとも」のあのえもいわれぬ感じ
あれ。
ああゆうのさぁ。
もっと原風景を原風景としてそのまま需要できた感受性てあった訳じゃない。
難しいカタカナ語を使ってみたり、へんな援用してみたり、わざと表現を婉曲したり、卑猥な言葉を使ったり、散文詩的な表現が格好良いと独りよがりに思ったり。
そうゆうのも勿論いいけど、自分達がそういうのを自分の中にいれる事によって失う感受性は、思ったより多いと思う。
気付いてない部分がきっと一番多い。
そういう所謂大人部分は勿論必要だよ。幼児退行化しろなて事はいってない。
たまにたまに、自分を懐古する事は絶対良い事だと思うな。
幼い事も今も、トータルでみたら多分なにも変わらない。
感受性が減って、知識とそれをまとめる能力が増えただけ。
卑猥な事を知っただけ。
だから自分は、子供達に学ぶ事は多いと思う。
これからは子供達に学ぼう。