遊星から来た物体X

ゆっくりとしおりをはさみ、本を閉じる。

読後の余韻に浸りつつ、心地よい眠気を感じたその時、私の眠りは始まる。

後は闇の中を適音で歌うじめじめとしたジャズシンガーの声と、思惟の波さえあれば、僕を安らかな眠りへと誘ってくれるだろう。
それは、この都会にあって最高に贅沢な一瞬だ。

ふむ。
完璧だ

完璧すぎて怖い。
さあ、眠りに…


ビシッ
ビシッ

ビクッ
不気味な衝突音が響く。
背中に悪寒を感じつつ、完全に引けた腰で飛び起きる。

「奴がきた。」

眼鏡をかけていないのと、電気をつけていないのとで、視界は最悪である。
しかし何はともあれ、寝床から非難しなければならない為、急いで飛び起きた。
つま先を痛烈にぶつけ、目の先に星が散る。

「ああ、クッソ」
だが、そうこうしてる間にも、奴は僕の頭上を旋回しているではないか。
痛みと暑さときみの悪さで、冷や汗がじっとりと張り付く。
ああ、なんて不気味な衝突音なんだ。
ビシッ
ビシッ
ビビビ

物憂げなジャズが流れている。
羽虫の音がする。
助けが欲しくて眠っている母を起こす。
そこで一言。

「馬鹿、一人で倒しなさい。私は朝早いのよ」

ああああ、神様。
奴らに掛かれば、家族愛もへったくれもない。
それにであった誰しもが人間悪の最たるものを露呈するのだ。
てか、家族愛ってこの程度のものなのか?!
いいさ、薄情な母親め、絶対に困っているときには助けてやんないからな。
ああ、絶望だ。絶望だ。
みてろ、絶対に奴を打ち殺してやる!


さて、先ほどから僕が悩まされている生物。
それは、つまりこの人間界で忌むべき生物の内数本の指にはいる生き物
「かなぶん」である。
奴らは、矢鱈滅多らに、いたる所に自らの体をぶっつける。
なので馬鹿なのかと思えば、僕らが捕獲に乗り出すと彼らは自らの気持ち悪さを利用して僕らの顔めがけて襲い掛かってくる(これは獣王・ゴキブリにもいえる特徴だ)頭のよさも兼ね備えている。
僕にいわせれば、奴らの武器はその質量と速度なのだ。
なにが気持ち悪いって、そこに尽きるのだ。
あの質量と速度で以て、我が顔面に衝突されたその瞬間を想像した瞬間、奴らに対する嫌悪感が脳髄にインプットされる。
あの質量は、なにか黒々とした臓腑のつまっている感じを。
あの速度は、衝突時の衝撃を連想させる。
その恐怖感が実際には毒も菌も持たない奴らに唯一の武器を持たせるのである。
奴らは人間の高度な認識能力を逆手にとって擬態をした、狡猾な認知生物なのである。
我々が、奴らの速度と質量を克服したら手で握り潰そうが、足で踏み潰そうが、我々の攻撃力の差から歴然と勝利は目に見えている。

しかしそう、敵は我々の認識。

それを克服したときに、僕らは浮世の苦しみを脱する力を得ているに違いない。

況や私はおや。

さて、そんなことを考えながら何とか第一の危機を逃れた私であるが、飛翔する奴に依然として恐れ慄いていた。
僕の採るべき選択肢は二つ。
一、奴を採り殺す
一、奴を採ってから逃がす
である。
大変慈悲深い僕は(臓物が飛び散る画を想像をしてしまって慄いた僕は)、前者を選択する事に決め、玄関にある虫取り網を手に握り締めて参上した。
だが、その前に真っ暗な僕の寝室の上でとび、ぶつけ回っているかなぶんをやり過ごし、電気をつけ眼鏡を奪取しなくてはならないのだ。
こうしている間にも実に高速で飛び回る奴。
第一匍匐(ほふく)の姿勢をとる僕。
「班長殿!自分は1030の方角から敵小隊による機銃掃射を掻い潜りまして、敵トーチカにあります、敵軍のどまんなかにて、照明弾を打ち上げ、我が軍の眼鏡を奪取してくる所存で御座います!」
「よし、いけ!男をみせろ!」

やあ、と一声、眼鏡を奪取した僕は、完全にへっぴりごしになりながら、電気をつける。
……
我が目を疑った。
カナブンの姿がない!
その一瞬に姿を消したのだ。
「貴様は忍びか!!」 っとつっこみをいれてから、無性に全てがおかしくなってしまい、一人で暫し腹を抱えて爆笑。
笑いも治まると熱病が冷めたように、興奮も引けて、僕は再び寝る事にする。
電気を消す。
時間は既に四時。
肩を撫で下ろし、安堵の息を吐く。

「長い戦いであった。」

そうして眠りの世界に落ちようとすると…

ビシッ
ビビビビ
ビシシ

ああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ
・・・・・・・・
そして、都合六時まで奴と格闘。
いや絶対に寝れる訳がない。

そして、ついに虫取り網にて、彼の獲得に成功。

ひとりカタルシスだ。

ここまで来るともはや彼は戦友である。

白々と明ける朝日に向かって僕は高々と彼を離した。

彼はまるで、昨日まで小さな箱でぶつかりまわっていたのが嘘みたいに大空へと、高みへとその小さな体で飛翔していった。

地上には穢れきった僕だけが残された。

余暇について

大学生最後の夏休みの真っ最中に、これから社会人になる前の僕が、社会人になった後の僕へ贈る言葉を残しておきたいと思う。

まず、もう既に成人を迎えた大人としては失格な、然しありきたりな言葉を吐こう。

「仕事など、したくない。」
これが、どう考えても本音に近いのである。
どんな仕事も、娯楽以上には楽しくなりえない以上、仕事はその目的を生活の基盤としての財政にもつ事になる。
この社会の構成員として、この社会を成り立たせて行くために、我々が、生産力を生みしてゆかなければならない。この社会を維持していくためにはとても莫大な エネルギーを消費するため、組織は常に拡大再生産を強いられる事となる。
そうした組織の構成員である我々はさらに能率を求められることは言うまでもなく、いかにして個人の自我を押し殺し、曖昧な形にして、その責任を常に求められる事となろう。
それは社会全体としてみるのであればもちろん必要なことであろうし、見ようによって「美しい」事にすら見える。
だが、我々は言って見ればミジンコよりも小さい構成要素の粒子の一粒だ。
もっと卑近なところで話をしよう。

その卑近な我々は、働く。
社会がそういう仕組みになっているのだから仕方ない。
だから、僕達は人生全体を占める自由時間を切り崩して、労働にあたる。
そうして得た金銭をもって余暇を過ごす。
つまり、人はもともとある自由時間を使って労働し、その労働をもってさらに自由時間を買っていると言うことができるのである。
労働の対価としての余暇ということを考える時、そこにはヘンテコな関係が出来上がる。それはつまり
「余暇のために働く」
のか、
「働くために余暇がある」
のか、
という論理のパラドクスである。
一見言葉遊びか、詭弁のように見えるかも知れないが、これは日本全体の労働と暮らしを貫く根本的な問題であるような気がするのだ。
行為と目的、認識と実践のあいだに明確な関係性と方向性と欠落した社会は、労働や余暇自体が「それ」だけで自己目的化し、永遠なるループを辿ることになるのである。フーコーは生活に潜む下品な永遠性を「嘔吐」と表現したが、その嘔吐感が今まさにこの社会全体を覆っている、言い知れない停滞感と、混乱を生んでいる一要因であるように思うのである。
男(女性に関してはスペースの関係上此処では割愛させて頂く)にとって、どういう状態が理想であるのだろうか?
皆現実裏では何をを求めているのだろうか?

働かなくても食えるような完全な保護状態だろうか、十分な資産であろうか?
いや敢えて「NO!」と言わせて頂こう。
そんなものはただ人間を肥えさせてゆくだけで、怠惰しか生まない。
なんの人間的成長もありえない。

さて、その代わりに僕が思うのは(唐突であるが)、

「幼少の再来」

であると思うのだ。
実はは皆が既に追い求めているものであるのだけれど…
老いは、悲しい。
それは充実した「今」を過ごしている事に対する切実な逆説として、歴然として存在している。
そうした、老いに逆らいたいという本能にも似た感情が、
 「少年へと帰りたい」
という感情を生み出すのである。

余暇の過ごし方は人それぞれであるが、それは往々にして子供返りを諭すようなものが多い(もちろん全てとは言わないが)。
余暇とは、一時の夢である。
本来所属している組織の見えない責任の鎖による管理下にいながら、それを一日乃至数日間忘れて遊ぶ夢である。
それのために人は七日間のうちの六日間を労働するのである。
恐らくは、それは幼少の頃の自由と酷似する。
少年の自由は自由であるようで完全な自由ではない。
それは母性に守られての自由であった。
束縛の範疇に於ける自由。
疑うこの無く騙される事の出来る軽率さ。

そうした制約の中での安心感が常に介在した自由であった。
しかし、大人になってからの自由は、そうはいかない。義務と責任を常に問われる成熟社会に於いては完全な自由の代償はすなわち人間性の喪失である。
こうした事態を防ぎつつ、かつ心地の良いあの幼かった頃に体験した自由を得るために、人は労働を対価にして余暇を買い、母性による安心感を得るために、結婚をして女性の管理下に置かれるのである。
かくして、男は余暇に模擬的な少年時代の自由を獲得し、意識的に訪れる老いの恐怖や、冒頭にいった堂堂巡りの状況に上手く目を瞑るのである。
大人の男が、余暇の獲得に邁進するのも、このような少年への憧憬というエネルギーがそうせせるのではないかと、僕は思うのである。

つまり不可逆なる時の流れに対する反抗期で我々の人生は出来ているのではないのだろうか?
そうした、大河の流れを逆流させんとするような、挑戦で僕らは老いて行くのである。

だが、思い返して見て欲しい。
我々人間の、全ての終着駅を。
そこでは僕達は愛するの者の世話になるしかないだろう。
老い果てた後は、愛するものの母性に全てを任せるしかないだろう。
つまり、黙っていれば、人生の序で、人は子供に還り、生涯の念願の幼少を獲得出来るのである。
完全なる自由はそこで獲得されてもよいんじゃないかと齢二十二にして思うのである。
(注;まだたいした労働もした事のない者の言う戯言です。労働それ自体にも愉快はあるかもしれない。いや、あるだろうという希望はある。本当の労働をして、またこの文章を読み返して見るときが愉しみである。)