青春の響き

時代錯誤だと思った。

タバコに完全な無駄なメッセージが刻印されるこの御時世に、皆、処構わず紫煙を吹かし、吸い殻を床に捨てる。

白い煙は音に呼応するように、その部屋に充満してゆく。

遮二無二に酒をあおり、あるものは手を高らかとあげる。あるものはステージに茶々をいれ、またあるものは叫び、謳う。
ここには、まだ若者の癖に病的なまでに健康を気にし、自分の生にすら自己決定に基づく自由意志を持たないようなピエロはいない。

みんな、今を生きている。
だから、酒を飲むし、踊るし、タバコもすうんだ。

なんて、時代錯誤なんでしょう。
紫色の煙に、スポットライトのビームが照射される。

いろんな形に変化する雲のよう。

なんだか空気が具現化したみたいだ。
そして音―――音がただ我武者羅に鳴っている。
演奏者は、自分の楽器の醸成するハイな集中の瞬間によって酩酊し、めいめいの楽器をかきならしている。

生成される音は、瞬間ののち、消える。生成と消滅が同時に存在する世界。
それを示すかのような青春のスパーク。
二度と戻らない唯一の時が切ないまでに過ぎてゆく。
上手い人も下手な人も一瞬一瞬が綺羅星の如く輝いていた。

「花火みたいだなぁ」

と僕はその美しい光景をみた。
セミ研の前期のライブ。
丁度一年前、僕らはそこにいた(就職活動とゆう名目で、僕は出演できなかったのだが、今とても悔いている笑)。
今はその僕らも引退し、後輩がその順番を果たしている。
僕らは、新陳代謝の皮膚みたいなもんだ。新しい皮膚はいつしかその役目を終えて、垢になって大いなる世界へと落ちてゆく。
一事が万事そうだ。友人も、親子も、人生も。
何かを伝えたらそれで役目を終えるのが人生だ。
セミ研とゆう組織は中身を次々と変えながら、入れ物だけは多分ずっと残ってゆく。
ライブで、或る(←こんな文字を未だにつかう人ですね笑)三年生がスーパーカーを演奏していた。
僕が高校の時に聴き、大学一年の時にコピーし、二年の時には後輩に教えた曲だ。
なんだか、感慨深い気分になった。
彼ら彼女らは、確実に僕らには分からない空気を共有していた。
もう新陳代謝は始まっていた。それに気付いちゃった。

いやあ。
美とはね。
絶対的なものでなくて良いのかもしんない。

相対化がなんだ!

限定空間の認識でよいではないか?
主観的な認識を限定された空間の中で共有することに美があってもいいじゃないか?!?
わざわざ、ルネサンスを引用するまでも無かったろう。

セミ研みたいに限定された範囲の中にも美があるということを僕は直感的に悟った。
恐らくこれは何人にも論駁できるものではないだろう。

ああ、つくずく美って奴は捉え様が無い。
何処まで言ってもそこが無い。
シェイクスピアが言った
「底は底なし」
見たいなものか。
なるほろ。
その時々の捉え様でよいのか。
つまり美って奴は「嗜む」類のものなのかも知れない。
直感が昂ぶりや歓喜を嗜み、楽しむための、一種のツールなのかもしれない。

なんて。

つまり、いいライブだったよ。

後輩達よ。

これからも、キミらの美しい散り様を僕に見せておくれ。

後六ヶ月に迫った、恐らく人生の最も油の乗っている時期のキミらの歓喜を、僕は特等席で見させてもらおう。

僕の大好きなウィスキーでも飲みながら。

ネガとポジのパラドクス

「満たされない、満たされない」と自分の不幸を嘆いている人は、若しくは「自分にはなにもない」と悲観する人は、その「満たされない」事自体が、全ての「創作力」を生み出す力を内包するという矛盾に気づかなければならない。
「満たされない」という事は幸福であるのだ。
人間の「欠落」から「創作性」は生み出されるのだから。
「不満足」のエネルギーが、真の創作を支える屋台骨となるのである。
反対に「私は満たされている」と思っている人は、不幸である事はいうまでもない。

開闢する音楽達

浜崎あゆみをテレビで見て思う。
ほんと薄っぺらい音楽だ。
スカスカの乾パンみたい。
いったい何がいいんでしょうか?
僕の価値観ではちょっとわからない。

さて、良い音楽ってなんでしょう?

常日頃、僕が言っているように善悪が多数決によって決定されるのだとしたら、J-POPはまさにその代表選手みたいなもので、日本人の大多数が「よい」と認めている音楽である。

音楽の仮に良し悪しを選挙で決めたら、大統領はBzになる訳でw

民主主義絶対の法則で言ったら、ジャニーズやつんくにわれわれの信じている「良い音楽」なんて完全なマジョリティーであって、それこそ逆に聴くに値しない音楽ってコトになりませんかね?

いや僕にだって

芸術≒大衆性

じゃないことくらいは一般常識としてわかっている。

さて、ここで僕は再び、「芸術とは?」という問いにぶつかることになる。

芸術≒美
という構図はおそらくほぼ間違いないだろう。
では美とは?
僕らがそれを直感として信じているものを安易に信頼してよいのだろうか?
僕が大学に入りたてのころ、音楽に詳しい友達に「良い音楽ってなんだい?」って質問をぶつけて見たことがある。
したらそいつは「直感でわからない?」って答えた。
よっぽど、自分の価値観に自信があるんだろうなあと思いながら、こういう人とは議論はできないなあと半ば諦めたことを覚えている。

直感で価値観を決めたなら、それは主観的判断の絶対性を採用することになる。
自己の相対化なき認識は、それだけで凶器だ。
過去にこの日本に於いてもそれを温床に排他的な差別や、問答無用の虐殺などをあげるまでもなく僕らの身の回りでも星の数ほどの悲劇がおこっている。
そんな危険な直感とやらを信じて良いのか果たして疑問である。
疑問ではないだろうか?

「人にはそれぞれの自我の視座をもって景色を見て判断している。
その遠近法(パースペクティブ)の作用があるので決して本質的に人間同士が分かり合える事はない」
といったのはニーチェであるが、そういった懐疑主義をまず持つことが健全であるのではないだろうか?
どうだろうか?(分かり合うことはできないがその近似値に近づける事はできるんじゃないかと思うので、僕は会話を止めないが。)

では、僕の主観的意見をひとつ言わせて頂こう。
美とは本質的に「刹那性」を含んでいるように思う。
パンクスの衝動性にしろ、ジャズの即興にしろ、舞台にしろ、ラブソングにしろ、それは刹那性を孕んでいる。

永遠の愛を願うラブソングにだって、刹那性は潜んでいる。

永遠の愛なんてものはある筈がないにも関わらず、その瞬間性を尊ぶ無意識の意志が現れているからだ。

そして、刹那とは「永遠」への憧れの裏返しでもあることの証明でもある。

刹那の感覚を持った人間にこそ永久不変の美へのパトスが生まれ、それを美へと昇華したものがすなわち芸術であるように思う。

ルネサンス芸術の美を見るが良い。
そのイデアを追い求めようとする人間のあがく姿を見、その結実した美を見るであろう。

では振り返って冒頭の浜崎あゆみの例を考えてみよう。
皆さん知ってのとおり、彼女の音楽を含め、近年のJ-POPは「消費音楽」である。
消費を消費する為の音楽と言い換えても良いだろう。
レコード会社も爆発的に売れる曲しか考えていない。
瞬間的な共感を生んだ後、砂の城ように消えてゆく。そういった音楽の需要形態に合わせた生産をしているのである。
先ほど僕は

芸術(美)≒永遠性
であると話した。

が、このJ-POPの場合、真逆であるのである。
つまり、その目的が、その存在自体が美の本来内包する永遠性とはもっとも掛離れた、瞬間性のみでその目的が完結している下賎な商品であるからだ。
本来瞬間性は、永遠性に派生若しくはその萌芽を内包している筈なのに。
そういった存在の矛盾こそが、JPOPに美が存在しない証明であり、僕がかんじていた違和感の回答でもあるのだ。

相対主義の波にもまれて、迷いに迷っていた、大学に入りたての頃の自分にこのまにあわせの回答を贈りたいと思う。

以上が僕が大衆消費音楽を嫌いな理由である。
まだまだ、書き足りないことだらけだけど、とりあえず一要因を書いておきました。
気に障った方がいらっしゃれば、これはあくまで個人的主観でありますので気にしないでいただけたら…。
さらになにぶん30分程度で書いた文章ですので、乱れはご了承くださいませ。

みなさんが考える「いい音楽の条件」見たいなもんってなんですかね?
ひとことでいうならばw

赤ん坊

昼下がり。
電車の中。
僕はバイトに向かう。
やわらかな日差しに包まれたボックス席の向かいに赤ん坊とその両親が座ってる。
彼女はちっちゃいちっちゃいその足をむずむずと動かしている。
むくむくとした頬が、とりおり笑顔をつくる。
その純粋な瞳は、しっかりと母を見据えている。
僕はボブマーリィの『woman no cry』を聴いて、それを見ている。
どうか彼女が、これからの未来、悲観の涙にくれませんように。
どうかこの世界のけがれが、彼女に興味を示しませんように。
どうか彼女が、健やかに健やかに、育ちますように。
小刻みに心地よく揺れる電車の中、大切に母の腕の中に抱かれ、懸命にミルクを飲む彼女とその母の姿に、神々しいものを見た気がした。
そんな、昼下がり。