陰口のメカニズム

人間なら誰でも何かしらの集団に属して生きていかなければなるまい。
かくゆう私も、学校・サークル・家族・親類・アルバイトets…様々な集団に所属してやっとのこと孤独をごまかしごまかし生きている臆病な人間のひとりである。
金欠に急かされて先日、アルバイトを始めたことはこのページを読んでくれている方ならご存知と思うが、最近、そのバックヤードでの彼らがしきりに話す、陰口についていくことが出来ない。
まあ、アルバイトを始めたばかりで、人の名前も知らない段階だし自分自身、仕事が出来るというわけではないので自然と彼らが話す陰口の乱舞を客観的に聞くこととなるのである。(俺も言われてんだろうなあなんて思いつつ)
冷静に、客観的に、彼らを見ていると実に彼らは嬉々として人の悪口を話し、人を陥れようとする。
しかし実際思い返してみると、いままで自分が所属してきた集団の中で話が一番盛り上がる時は、人の陰口を囁きあっていたときではないか?という疑念が湧き、彼らと同じように誰かに客観的に見られているそのときの自分を思い、ぞっとした。
たぶん僕はそれを止められないし、だからなおさらやめろなんで忠告をすることは出来ないだろう。
あともうひとつ気づいたこと。
人の悪口を言うような場合、ほとんどそれは本人の前ではない。
それは何故なのだろう?
この問いから派生したものが先日気づいたことである。陰口は、けっして本人に語られることはない。改善が求められる点、また改善の可能性がある人間でもそれはかわらない。
いいか悪いかの問題で言ったら、組織においては欠点や欠陥は改善されたほうが良いに決まっていることは至極明確な話であるが、それはけっして本人に語られることなく消化されていく。
解答はこうではないか?
――陰口とは対象の人間に対する不満や、自らのコンプレックスに対する反発の、共感・正解感を得るために他人と行う行為である。
ということは組織の中で陰口は、ストレスやコンプレックスのスケープゴートとしての機能を担っているのではないか?言うなればストレスの暴発、もしくはただの発散のための犠牲者である。むしろ対象者の欠点・欠陥つまり陰口の議題となる点は改善されてはならないのである。そうなると「生贄」がいなくなってしまうから。
陰口を言われる人間に忠告をすることなく問題を放置しておく事は、皆が無意識に組織の機能を効率的に運用するために行う行為だとしたら、先程の問いへの説明はつく。
なかよしだけでは退屈で人間は生きてはいけないのだろうか…
人間は複雑至極な生物である。これがすべての解答だとは言うことはもちろんできないが、この解答ももちろんひとつの人間の側面として存在していると、私は思う。
この構造にに気づいた時には人間存在の邪悪さというか救われない醜さにぞっとしたが、気づかないよりはましだとも思う。
なんたら成人やなんたら佛さんでもない俗人の俗人たる私は、悪魔の誘惑に屈服し、これからもクソのような笑顔で人の悪口を叩き続けるでことであろう。
しかしふと思う、それを0にするこたあない。
意識出来る程度に変なことを言うのを減らしていけばいいんだな。なんて無責任に思った。

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