怨嗟、嗟嘆、姦淫、多情、二心、据傲、顕示、姦通、放恣、怠惰。
およそ、考え付く限りの自己愛に満ちた、自己中心的な一方通行的な表現、それが落書きです。
それは教室の机にあり、公園の便所にあり、Webにあり、駅の伝言板にあったり、壁にスプレーで描いてあったりします。
それらメディアは、不特定多数の、不特定者に向け無責任に表現されます。
また、それらは極度に無常です。
無常な僕らを通り過ぎていくさらに無常である髪の毛や衣服と同じように、それら切実な自己表現は、汚れ、消され、踏みにじられる形で世の中から無へと帰属していきます。
生物は遺伝子が増えるのに一番都合のいいように最適な期間しか生存できないよう、テロメアという遺伝子によって、決定されているそうです。
「蝋燭が尽きたら寿命が終わる」という良くある話のようにそのテロメアが尽きたら寿命が終わるそうです。ナンセンスな例えですが。
人間個体にとってはそういった遺伝子の思惑どおりというか反してというか、永久に自己を存在させていたいわけで、頑張って恋愛、交尾、繁殖に励むわけです。
また別の手段として芸術や文学や音楽や権力や功績で永久に自己を残そうとする方法があります。
しかし、それらは大変だし才能も労力も必要とします。
ですが、さらに御手軽で、コストも労力もかからない自己保存の方法があります。
それが落書きです。
自己から離れて、自己が存在しない時間と空間に、自らの思想が知らない知らない誰かに理解されいる。と、落書きをして夢想するだけで、私達は不特定多数の真に繋がり合える仲間と一期一会をし、彼らの中に生き続けることができるのです。
この方法なら非常にお手軽で満足感がえられる上、責任も、自分に被害が及ぶこともありません。
しかしその代わり、それら切実な叫びも風で吹けば消えてしまうほどに無常という反面を持っています。
ですがみな、それを無意識に承知した上で書いているのです。
吹き消えてしまうとわかっていても表現を止めないこの無垢なひたむきさは、ニーチェが言うところの無垢な赤子であると例えても良いかも知れません。
瞬間だから、無常だから、禍々しいから、落書きはかえって美しいのです。
自己保存のエゴと、表現の忘却が一緒に在るというパラドックスが生々しい人間味をもってそこに存在しているのです。