おなかのおっぱい

と、娘に言われた。

俺のビール腹を指しているらしい。

おなかのおっぱいに頬ずりしてくれる娘を見ると、もうすべてどうでもよく、良い。

娘がもう一人来るらしい

どうやら、第二子も女性で確定のこと。

長男で唯一の男である私。
正直、跡取りついて考えたことも少なくはない。

だが、第一子の娘が産まれた。
それですべて吹っ飛んだ。
彼女が与えてくれる体験が圧倒的過ぎた。

自分が死んだあとの事はわからん。
跡取りのいなくなった自分の家もしらん。

人間、生きて死ぬまでどんだけ幸福を味わえるかだと思う。それがすべててそれ以上はあの世に持っていけない。責任も取れない。

その点、幸福という観点で見ると、男親にとっての娘は殺人的だ。

その娘が2人。2人。
妻、娘、娘。

気の強い、おしゃべりな女だらけの家で、
どやされながら過ごす人生も悪くない。

いや、最高だな。

旅の一日の終わりに

旅先でヘトヘトになるまで歩き、帰ってきたホテルで呑むビールが好きだ。大好きな音楽があるとなおいい。

火照った身体を、静かに収める時間。

遠く離れた地から、人生を振り返る時間。

旅先で聴いた曲は、その時感じた旅情をありありと思い起こさせてくれる。

https://youtu.be/6u_GuyvhGwU

音楽はずっと変わらない。

でも僕たちは年を取る。
大きくなる子供、年を取る家族。

変わり続けて行く世界。

せめて音楽の中だけには、時間を閉じ込めておきたいと、旅の最後に、またビールを呑んで、音楽を聴くのである。

トラブルと予測不能こそ、子育ての醍醐味だ

新型コロナによる。在宅×育児のパラレル生活も早3ヶ月。
最初は大変だった育児と仕事の両立も、すっかり新しい日常になった頃、緊急事態宣言は解除された。

嫁は仕事に行き、娘は保育園に行った。

そんなわけで今日、実に三ヶ月ぶりに一人で飯を食った。

ずっと行きたかった、子供お断りのラーメン屋だ。
そこそこ美味かったのだが、何か物足りない。

はて、なんだろうと考えて、わかった。

一人で昼を過ごす、時間そのものがものたりないんだ。

大人が一人で飯を食えば、まぁだいたいすべてのことが予測できる。出発時間、徒歩の道順、食って戻る時間、仕事の前のコーヒーブレーク。
そうだ、計画通り、順調だ。

だが、退屈だった。

思い返してみると、この三ヶ月はすべてが予測不能だった。

娘のうんこが漏れた。
見たこともない虫をみた娘が泣いた。
子猫が死んでいて、娘がそれを潰れてると表現した。
娘がおばあさんにりんごジュースを貰った。
娘がコンビニの外人店員さんに可愛がられた。
朝の神社で家族並んでコンビニ飯を食った。
娘がコンビニに入るやいなやヨーグルトを2つ持って買えとせがむ様になった。
娘が親を二人目の前に並ばせて、自ら歌うようになった。
娘と仕事上がりに公園に行き、俺はビールを呑んだ。

子供が生まれた。
たしかに個人の自由はなくなった。

だが代わりに、トラブルを得た。
予測不能でエキサイティングな体験だ。
一切退屈はしなかった。

そう。
トラブルと予測不能こそ、子育ての醍醐味なのだ。

娘と会える時間は少し減ってしまった。
だがその分、今、この瞬間しか味わえない予測不能な愛しいトラブルを噛み締めよう。

そして何より、娘はかわいい。