今、わたし。
何故、今を嘆く。
何故我々は過去を崇拝し、青春を美化するのみで、<今、ここ>を卑下し軽視するのか。
例えば音楽に明け暮れた大学の頃の四年と、今の四年。
青春と今。
比較すると、誰しもが今の生活の色の無さを見出すだろう。
だが、その時間の<客観的な価値>は、等しい筈だ。
数年前も今も<時>は等しい。
ならば<時>は客観的に時は同じ価値を持つはずだ。
いや更にいうなれば、各個人の中に記憶として凍り付いて動かない<過去>と等価に、いや本来ならそれ以上に、
<今>はその一瞬一瞬のその豊かな可能性的多様性において、光り輝き、生に溢れ、素晴らしい。
上記のような客観的状況があるにもかかわらず、過去と今、その問題で悩むとすれば、
その時間軸で変わったのは、時の受容体側。
つまりわたしだ。
主体だ。
世界を観測するのは、私ひとりしかいない。
そして、その観測の仕方は私自身に任されている。
その事実を悲観せず受け止め、逆手にとって自ら選択し、行動し、自らを新しい世界に置く。
僕らは、今からでも何度でも何回でも何百回でも、自ら望めば、選択すれば、素晴らしい瞬間に出会える筈だ。
ではいつ、その果実を摘み取るのか。
過去ではない、未来でもない。
それは今だ。
「過去の自分」に耽溺したり、「未来の自分」を最優先するために、今の自分と時間を蔑ろにするほど馬鹿な事はない。
【かって幸せだった自分】
や
【いつか幸せになる自分】
を夢見るのは終わりにしよう。
今、人生の芳醇を積極的に味わおう。
今、
わたしが、大事な人に会いに行こう。
今、
わたしが、美しい世界を見に行こう。