夕立

他人の老いた顔は容易に想像出来るのに、何故自分の老いた顔だけはいくら鏡を見ても想像出来ないのだろうかとふと、思った。

境界線

最近

弱い自分と、強い自分。
まだその境目がわからない。

会社人間になる境目と、自由で無責任の塊の自分。
その境目もわからない。
僕のまわりの人たちそれぞれに別々な僕の評価をされ、それが組み合わさって僕の評価になる。
それと同時進行で僕の内部で僕の評価も醸成されていく。

それはつまり
僕は
バラバラな環境で、ブツ切りにされ
バラバラな組織で、ブツ切りにされ
バラバラな個人に、ブツ切りにされる

答えられない期待に答える為に、
深い部分にいる超自我が、ブツ切りになった自分をひとつひとつ繋ぎ合わせて

「まあこんなところでいいでしょう」

という許可で完結する建設のような行為。

徐々に積み上げて行く俺の構成要素は、知らず知らずのうちに僕の中の大切な部分を蝕んでゆくかもしれない。
そのときに、だれかが一言
「あんたそれはおかしいよ」
と遠慮なくいってほしいんだ。
甘えでも妥協でもなく、僕の人間性の欠落はタブン僕自身で気づくことが出来ない。
変わって行く自分が怖いんだ。
居心地は悪いんだ。
「人が成長するときって苦痛を伴う」⇒「全ての苦労は人生の為になる」
=現状を肯定せよ

ってだれかが言ってたけど、
その苦痛が成長に繋がっているのか、
人格を槌で破壊しているのか僕にはまだ判別しかねるんだ。

逆に皆が困ったとき、方向を間違えそうになったとき、手を差し伸べてあげたいと思っているんだ。
変わって行くだろう、自分が怖い。
こんなあまりにも、あまりにもありきたりのモラトリアムなんて犬も食わないだろうけど。

それは
タバコが無くなったら、買いに行くように、僕という人格も、人材がなくなったから買われただけの話。

自動販売機から落ちてきたタバコが
考えている幾つかの戯言。

海と毒薬

海の側に住んでいると、実際中々海には行かないものだ。
もう潮風は生活の一部であるし、有難味も感じない。
散歩コースでもない限り、わざわざ見に行かない。
でも、無性に海を欲する時がある。
心がささくれ立った時。
どこか爛れた様な時。
そんな時は自然と足が海へと向かう。

欠けた心が海を欲するのか。
心が欠けたからこそ、元々ずっと心にあった海が呼ぶのか。
心が海を呼ぶのか。
海が心にあるのか。
潮騒に心を委ね、広大な視野に開放される。

広大な、あまりにも広大な海。
そら。
僕が今死んでも、未来、死んでも変わることの無い自然。
有機の繋がり。

漣に身を任す。
ひとつの贅沢で、また残酷な癒しだ。


少年が、一心に海に石を投げていた。
僕はそれを美しい光景に感じた。